もの知らず日記

積み重なる駄文、天にブーメラン

自分と相手のすれ違いについて

 べつに知ったかぶりをするブログではない(いやそうかも)のだけど、よく感じることなので書き留めておこうと思う。他人と過ごしていると、こんな感じの四象限を想像したくなることがある。

自分のしてほしいこと、相手のしてほしいこと
  相手
自分   してほしい してほしくない
してほしい (1) (2)
してほしくない (3) (4)
  • (1)自分も相手もしてほしいこと
  • (2)自分がしてほしい、しかし、相手はしてほしくないこと
  • (3)自分がしてほしくない、しかし、相手はしてほしいこと
  • (4)自分も相手もしてほしくないこと

 (4)は「己の欲せざるところ人に施すなかれ」、(1)はその逆で、どちらも当たり前かもしれない。けれど見落としやすいのは(2)や(3)のような場合だ。つまり、自分と相手の考え(あるいは思い)が違う場合に、「自分を離れて相手の立場に立とう」と考えられるかどうか。自分と相手はべつべつの人間だから、本当に相手の立場に立つことは出来ない。問題はその意思をもって行動できるかだろう。

 似たような四象限を考えることが、もう一つある。同じようで微妙に違うので考えてみる。

自分のしてあげたいこと、相手のしてほしいこと
  相手
自分   してほしい してほしくない
してあげたい (1) (2)
したくない (3) (4)
  • (1)自分がしたい、かつ、相手がしてほしいこと
  • (2)自分がしたい、しかし、相手がしてほしくないこと
  • (3)自分がしたくない、しかし、相手がしてほしいこと
  • (4)自分がしたくない、かつ、相手がしてほしくないこと

 自分の態度が「したい・したくない」に変わっただけだ。ただし、「自分がしてほしいこと」は自分自身の願望を表すのに対して、「自分がしてあげたいこと」はあくまでも相手に対する奉仕の意思がある。(”したい”、でもいいのだけど、相手にしたいというニュアンスが出ず語弊が生じるのでこうした。”したくない”は、”してあげたくない”ではややこしいのでこうした)

 ここでもやはり齟齬を来している(2)と(3)が問題になる((4)に至っては玉砕覚悟の嫌がらせでしかない)。自分が「してあげた」と満足していても、相手がじつは「してほしくなかった」と思っているかもしれない。逆に、相手が「してほしい」と思っていても、自分は気がつかなかったり、「したくない」と思っているかもしれない。

 「自分はこんなにしてあげたのに」と思っていても、それが(2)のように相手の望んでいないことばかりだったら意味がない。逆に、夫婦のように長年共同生活をしている場合は、互いに互いの意思をある程度想像出来てしまう。だからこそ、(3)に挑戦することで大いに喜ばれるのではないかと思う。具体的には、妻が夫に対して「どうせこいつはこの年末年始の連休でもろくに掃除もせず、グータラ……この家をゴミ屋敷にしてくんだろうな」と思っていたところに、腰を入れて掃除を始めたなら、ずいぶん評価は上がるに違いない。

 こうした食い違いの例がほんとうに数えきれないくらい思いつく。自分の例でも、他人の例でも。

(追記)似たような話を過去に書いていた。こちらのほうが整理されていて、過去の記事は具体例に過ぎないのだけど、一応自分用にリンクを張っておく。

dolce-sfogato.hatenablog.com

看取りの場所

 ときどき、世の中の流れを知らなすぎると思って統計を見たりする。

 日本では、比較的多くの人が自宅での最期を希望するのだけど、実際には病院などの施設で亡くなることが多いという。自分の最期について、希望と実際が違ってしまう場合も少なくないと考えられる。このことは平成26年厚生労働白書などに書かれている。

 いまはどこで最期を迎えることが多いのか、と思って、平成29年度の人口動態統計を見てみた。もの知らずクオリティのパワポで恐縮だけどグラフにした。

看取りの場所(百分率)

 かつては自宅死(薄緑)が圧倒的に多かったが減少を続け、反対に施設死(病院など)は増加し続けてきた。そして1976-77年に逆転している。これも社会的(家制度)、政策的(保険制度など)、さまざまな要因があるらしい。

 近年変わってきたのは、分かりづらいが2005年から病院死(薄青)が明らかに減少してきているということ。そして老人ホーム(オレンジ)が増加傾向にある。看取り介護算定など、政策的な影響らしい。自宅死に関しては、2005年ごろに減少傾向から若干増加傾向にあるか、という程度でしかない。

 どうなのだろうか。1970年代までは5割が自宅で亡くなっている。いわば死が身近にあったと言えるかもしれない。とすると、この時代と現在の両方を知っている人はこの劇的な変化を身を持って感じておられるかもしれない。あるいは、この表を見て知らないうちに劇的に社会が変わっていることに気がつくかもしれない。それが統計の面白いところではないかと思う。

 ひとつ気になるのは、病院から自宅に帰ってきて通夜を行う場合だ。この場合はおそらく病院死として数えられるのだけど、自宅死に通じる部分もなくはない。とはいえ、そうしたケースもまた少数であろうと想像はできる。ともあれ、社会の変化が見事に表れていて面白いと思った。

「ブログ初心者に贈る言葉」がない

今週のお題「ブログ初心者に贈る言葉

 ブログ初心者というのは何なのか、わたしにはよく分からない。もちろん利益を挙げることを目指すのであれば「ブログ上級者」となる必要があるし、その道を少しだけでも”教えてあげる”のが「上級者」の優しさというものだろう。だが、わたしは「上級者」ではないし、今週のお題は「ブログのアクセス数を増やす方法」とか「ブログでカネを稼ぐ方法」ではない。あくまで初心者に贈る言葉だ。

 ではこの「上級者」でもないわたしはなんなのかと言ったら、風呂上がりにお湯を飲みながらイスの上にあぐらをかき、ひざかけをかけて足を温めているボンクラでしかない。末端が冷える。

 そんなのが、なにを贈れるだろうかと考えたら、「こういうヘンテコなやつも巡回しているのだ」ということを告知することしかできないという結論に至った。わたしは、アクセス数が多いようなブログよりは、アクセス数に関係なく、人となりが知れる文章が読みたい。その人の考えや思いがあるということ。ためになる情報を読んだりもするけれど、それでも基本は日記だと思っている。

 けれどもこう考える人はあまり多くないと思う。やはり多くの人が潜在的に求めている、隠されたニーズというものがあるのだろう。そしてそこを絶妙に掘り当てる人間が、善悪はともあれ話題を呼ぶ(もっとも、これは、”隠されたニーズ”という言葉が強すぎてなにも言っていないに等しい)。

 わたしはそれがなんだか嫌だ。わたしは、どんなに下らなくても自分のやりたいことをやる。アクセス数が0でもやる。基本が日記というのはそういう意味もある。心の底からそう思っているからこそ、アクセス数が0でない現状は驚きと感謝を示さずにはいられない。最初は「自分の再三のアクセスがカウントされているだけなのでは」と疑ったりもしたが、やはりだれかが1秒でもアクセスしてくれていることは間違いがないらしい。

 こういう態度でやっている人間もいるので、アクセス数など気にせず(本来気にすべきかもしれないが)、ぜひブログをはじめて見てほしいと思う。

泣いた記憶

 4歳のころは、とにかく泣いていたことだけは覚えている。ある日突然、幼稚園の教室に「おに」がやってきて、「いやだ、いやだ」と泣きわめいていた。

 注射のときも泣いていた。病院へ行くのは知っていて、「なにしにいくの?」と聞いたら「注射」だと言った。それから泣きわめいて必死に抵抗したが無駄だった。

 遠足のときもそうだった。わたしは「としまえん」のお化け屋敷に入るのが嫌で、また「いやだ、いやだああぁ」となきわめいた。いま考えれば、それはおそらく全国のお化け屋敷のなかではさほど恐くない部類に入るものだったに違いない(でなければ遠足で園児を行かせるわけがない)。けれど、わたしは恐くて仕方が無かった。それで結局、入らなかった。今でもお化け屋敷の楽しさは理解できない。なぜ恐怖という不快な感情から楽しみを引き出すことが出来るのか(そういう楽しみを感じる人を否定するつもりはない。ただ不思議に思うだけだ)。

 5歳のころ、わたしは「いつまでこうやってすぐ泣くのだろう」と思った。いい加減、泣きたくないと思った。だが泣いた。6歳になって小学校で防災ずきんに小便をもらしたときも泣いたし、7歳のときには発表が恐くて泣いたし(通知表には”すぐ泣く”と書かれた)、小学5年生のときは給食のときに魚のフライのおかわりで勝利したにもかかわらず強奪され、当時見ていた「陰陽師」の安倍清明の真似をして人差し指と中指を立てて印を結びながら泣いた。「陰陽師」を見ている同級生は皆無だったので、変人扱いされた。

 それから記憶に残っている「泣いたシーン」はあまり無いように思う。部活で悔しくて泣いたことはあった。普通に怒られて泣いた。それ以外は、卒業式も泣かなかった。成人するとそういうイベントはさらに減って、泣くことはほとんど無くなった。

 けれど、わたしは泣きたい気もする。もっと泣いて笑って、精一杯生きるべきではないかと感じる。日々が穏やかで円満過ぎるのだ。いまでも小説や本やゲームやアニメやテレビでわんわん泣くのだけど、現実で泣きたい。いや、今は心が穏やかというよりは、ただ鈍感になっているだけなのかもしれない。

 とりあえずは寝よう、話はそれからだ……という自分の声が聞こえて来たので寝る。

2018視聴アニメ

冬を振り返る間もなく春が来た。各期ごとに適宜追加予定。各アニメ順不同。

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2018秋

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