もの知らず日記

積み重なる駄文、天にブーメラン

快適なテキストライフを求めて

 ふと街中でテキストファイルを確認したくなって、そうだOneDriveに保存しているのだからスマホで見られるではないか、と喜び勇んで開いてみたところ、内容が「?????」になっていた。口頭で説明したらおそらくふざけているのかと思われるに違いないが、ただ延々と「?」が続いているのである。「?」と言いたいのはこちらである。なぜきちんと保存されたファイルをきちんと開けないのか、OneDriveよ。調べてみると、文字コードがShift-JISだったのが原因とのこと、あとでわざわざパソコン側から文字コードUnicodeにして保存し直してみたのだけど、こんどは「0x00000~」みたいなデタラメな表示。こうも日本語に対応していないとは。スマホ側の問題だろうか。それで、こんどは次善の策としてUnicodeに変換したファイルをGoogleDriveに移動したところ、こちらは普通にスマホでも開けた。ただ、GoogleDriveのビューアーは黒背景に白い文字で、暗所ではよいかもしれないけれど普段読むにはちょっと目が疲れる。なんとかならないものかと調べてみたけれど、おぼしき記事は見つからず。むむむ。GoogleDriveのビューアーで開けば普通に読めるのだけど。毎度のひと手間が微妙に面倒くさいのです……。

打ち込み日記

 最近、打ち込みたいと思う作品に出会えていない。漠然と「この曲が好きだ」というくらいの思いでは打ち込めない。何千というおたまじゃくしを長さを調節して入力し、ひとつひとつの強さを整え、響きはどうか、さらにフレーズとして破綻していないか、ペダルはこれくらいでいいか、などなどのことを確かめながら、石をひとつひとつ積み上げるように作ってゆく。気の遠くなるようなパズルだ。わたしの求める品質は決して高くはないのだが、それでも演奏としてある程度成立していないと困る。となると、打ち込みはそれなりに大変であって、半端な思い入れではまず頓挫してしまう。「こういう表現もできるのでは」「なぜ誰もこのような表現を試さないのか」というくらいの、傲慢な思い込み、強い問題意識が、気の遠くなるような打ち込みという作業を貫徹する原動力になる。

 今の部分だけでもいくつかの話題が出た。まず私の目指す品質について。私が品質面で目指す目標は、演奏像の骨格を示すこと。人の演奏を再現することは難しく、またその意味もあまりないと考えている。そもそも、私がおもにやっているのは、通常人の弾く作品をわざわざ機械的な方法で再現することである。人と競うのでは、人が弾けばいいではないか、ということになってしまう。出来そこないの焼き直しを作る意味はないと、私は思う。もちろん「だれだれの演奏を再現してみた」と、そういう楽しみ方も有り得るので、それを否定はしない。けれど、私は「ではその人の演奏を聴けばよいではないか」と思ってしまう。

 なぜ打ち込むのか。それは自分にとって打ち込みが表現手段だからだ。ピアノが弾けないから打ち込むのだ。だから、「自分はこうしたいのだ」「こう感じたのだ」という意図だけでも込める必要がある。それが演奏像の骨格を示すということである。伝わるかは知らないが、伝わる”かもしれない”こと。その可能性を与えることが大切だと思う。

 ピアノの打ち込みは、シンプルで奥が深い。ピアノ本体の機構がとてつもなく複雑なのに比べると、ピアノという楽器での表現に関わってくるパラメータはきわめてシンプルだ。まず全体のテンポ。音の高さと長さ。打鍵の強さ(ベロシティ)。ペダル(ダンパーペダル、ソフトペダル)。反面、水平的(フレージング)、垂直的(ハーモニー)にきれいになるように音の面倒を見なければならないので、それはピアノならではの面倒かもしれない。それでも、やること自体はこれらのパラメータをいじることだけだから、シンプルではある。

 自分でいちばん満足したのは、ショパンのエオリアン・ハープだった。客観的な出来具合は分からないけれど、一番楽しかったし、自分のしたいことが出来たと思えた。はじめこの曲に対しては、動く内声のフレーズをあえて強調しない演奏を作ってみたいという思いがあった。この曲はアクセントのついた高音と、和声の微妙な変化が美しい作品で、それが第二のメロディのように聴こえてくるところがあるとわたしは思っている。そしてその第二のメロディを、「私は分かってますよ」と言わんばかりにわざとらしく示すのではなく、ほのめかしたいと思った。それは聞き手に「聴かせる」のではなく「聴こえてくる」音であるべきだと私は思う。もちろん逆の場合、「聴こえる」のではなく「聴かせる」べきときもある。けれどこの作品はそうではないと。

 あと打ち込んだもう一つの理由は、単純に、響きの美しさを求めてみたかったということ。これもいろいろ試した。伴奏形に合わせてベロシティを変えたり、音の高さ(保続する時間が違う)を考えて、とか、いろいろやったけど、結局はシンプルに同じベロシティでやったほうがうまく行った。たしかにベロシティを変えて調節すると、響きは均一になるのかもしれないけれど、強弱が違うので打鍵時の鋭い音がデコボコになってしまう。それが響き以上に音の輪郭をガタガタにしてしまった。

 さらに「こういう表現もできるのでは」と思った部分やその実践、そういう曲に出会えていない現状についてぼやきたかったのだけど、あっという間に1700字に達したので終了。

日光

 日光に行ったときのことを記録。紅葉を見ようと思いついた翌日から3連休が入っていた。ちょうど紅葉の時期でもあった。これは旅に行くしかないと思い、急いで予約。リバティという新しい特急があることを知った。これに乗らない手はない。列車の時間よりもだいぶ早く来てしまったので、そばを立ち食い、グミを買いこんだりして時間を潰した。いざ自分の座席に着くと、外国人が座っていた。おそらく相手が日本人だったら「なんだこいつ」と思ったかもしれないが、外国人だと「わざわざ日本に来たのだから」という気持ちが働いてなんとも思わなくなる。自分の思考はなんとも安直なものだ。東武日光駅で別れてから、こういう旅の出会いも面白いなと思った。

 今回の旅の目的はただただ景色を見る、いわば散策と休養であって観光では一切なかった。結果的に、歩き通しの旅になったが。以下、行った場所を列挙。

1日目

15時ごろ着。中禅寺湖華厳の滝。宿に入り9時ごろ就寝。

2日目

7時朝食、8時出発。快晴。中禅寺湖(インド料理屋?の廃墟が印象に残った)~竜頭の滝~小田城ヶ原(徒歩!遠すぎた)。バスで千手ヶ浜へ。徒歩で西ノ湖(地図で見た以上に遠い!)。これだけで夕方。帰り、夕暮れに染まる赤沼のバス停に一人ぽつんと立つ。さすがに心寂しい。宿に帰り、風呂、食事を済ませ、のだめカンタービレを読む。夜10時就寝。

3日目

7時朝食、8時出発。快晴。裏見の滝(ゆるやかな坂が続く。徒歩30分程度、おそらくバイクや車が最善。なぜか安良沢浄水場が記憶に残った。裏見の滝の先には慈観滝、初音滝などがある。こんど行ってみたい)。戻り、寂光の滝(戻るのが大変! 山らしい坂が続く。おそらくバイクや車が最善)。菓子屋に寄り、東照宮見物。名物のしそ巻き唐辛子を土産に買い、東武日光駅。揚げ饅頭を買い食い。バスを待つあいだ金谷ホテルベーカリーのカフェで時間を潰す(静かでとてもいい時間だった)。バスで霧降高原に出る(途中ペンションなどがあった。霧降の滝も見てみたい。高原より先の大笹牧場も行ってみたいものだ)。キスゲ平とはいうが季節外れで人はまったくいない。1445段の階段を上る(おそらく山道を普通に歩いた方がラクでは……)。すれ違ったのは3人(1人と、2人カップル1組)だけ(笑)。展望台の先は赤薙山の登山道に続いている。途中八平ヶ原へ分岐する回転扉があったが、その先は網で完全に封鎖されていた。

 総じて、心休まる、というよりは、歩き倒しの旅だった。観光らしいことをせず、ひたすら日光を歩き通す。帰りの電車では、駅弁を食べてうとうとしていた。不機嫌そうな女の子の隣で、勝手に温まるという駅弁を「プシュー」とやったときは、さすがにすこし気まずかった。

ストレスを味わえる電車

 電車というのは私にとって最大のストレス要因(あれほど他者と接近しなければならない環境はそうそうない)なので、電車に関する愚痴が自然と多くなってしまう。今日も、満員電車のなかでこっちをぐいぐい押してくるおばさんがいた。押すだけならいい。彼女はおしりで繰り返し押してくるのだ。最初はおかしいと思って我慢していた。けどこれは明らかにわざとだ。私が触っているのではない、私が触らされているのだ(語弊が生じる表現ではあるがそうとしか言いようがない)。そうまでしておのれのスペースを確保したいか。しかも、うしろには素足をさらけ出した若い女の子が居る。私が無理に避ければ、こんどは若い彼女の素足にぶつかってしまう。とてつもなく危ない。なぜだ、今日は冷えると言っていたではないか。暖かいのは昨日でおしまいだと、言っていたではないか。原宿だからって、なんで素足を出すのだ。いや、それは言いがかりというものか。つまり、後ろには女の子の素足という壁があり、前方からはご婦人のおしり攻撃が迫ってくるこの状況。背水の陣(それではおばさんに遮二無二突撃するということになってしまうが)。逃げ場のない私。もう泣きそうである。おばさんがこちらをちらりと見る。もういやだ! ここまで考えてしまうのは私の偏執病だろうか、いや、この回避不可能な痴漢冤罪的環境の恐ろしさはただごとではない。横に逃げればいい? 残念、私はすでに外国人観光客のスーツケースで完全包囲されている。と、代々木に着いた! 人が降りた! 私はすかさず後ろに飛び退いた。外国人のスーツケースに盛大にぶつかったが、「ごめんなさい!」と言ったらなぜか通じた感じだった。

文学白熱教室 メモ

カズオ・イシグロさんの『文学白熱教室』を今さら見たので、メモ(何年前だ……)。

小説はほんとうに娯楽の一手段以上のものなのか。

なぜ事実ではない話を読みたいと思うのか。 なぜエッセー、歴史書や科学書ではないのか。 たしかな事実が詰まっていて、確実な知識が得られるのに。

なぜ小説を書くのか

根底にある理由: 薄らいでゆく記憶のなかの「日本」を記録する。見たこと、両親に聞かされたこと。 現実の日本ではなく、秘密裏に残していたかけがえのない「日本」を紙に書き記したかった。

自伝ではない。視覚的感覚的に覚えている世界をつくる。

20代の自分に何かをいえるとしたら:

いまの自分は20代の自分を賞賛するであろう。 若い作家としての自分をうらやましいと思う。当時の自分には湧き上がるように想念を膨らませるパワーがあった。子ども時代とのつながりや記憶を持っていたからだ。20代の作家にしかない独特の力がある。 →花

読者の読み方の限界:

3冊目でイギリスを舞台にした。 普遍的なことを描いていたつもりが、日本のこととして受けいれられていた。 →ナショナリズム 舞台設定やジャンルは自由に動かすことができることに気がついた。

イデアをまとめる:

センテンスで書きとめる。寝かせたり、見返したりする。 物語は抽象的なところから始まる。 例:3作目。完全無欠な執事になりたい男の物語。舞台はどこでもよい。

なぜ現実とは違った世界を描くのか:

現実世界と似て非なる世界。現実を際だたせた世界。 フィクションとは何なのか。 実生活にあるものは想像から生まれた。

なぜ小説なのか:

小節でしか成り立ちえない形を模索しようと思った。

プルースト失われた時を求めて』を読んだ。 記憶だけで描かれているところがある。 30年前の場面が2日前の出来事と直結して語られる。 不安定な記憶の流れを描く。それはほかの形では得られない。小説を読まなければ体験できない。

筋書きに固執して時系列に話を展開するよりも、語り手の内なる考えや関係性を追って書きだした。

私にとって記憶は、一枚の写真のようなものだ。 映画だと、過去の感触が消え失せてしまう。

記憶の信頼性:

信頼できないことが小説家にとってはかえって強みになる。 信頼できない語り手を置く。 他人に、自身にウソをつく語り手。 読者は、建前に隠された本音を見抜くスキルを使う。

いつまで暗い記憶を忘れるのか。いつ向かい合い思い出すのか。 個人的記憶、社会的記憶。 つらい記憶を忘れることはよいことなのか。 人種差別、過去の美化。

事実ではないことをつくり出す人間は、責任を持たなくてはならないと思う。 どこまで責任を持つべきなのか。

イギリスの執事の隠喩(メタファー)

感情発露への恐れ、多くの人びとの政治的関心(盲目的な従事)

小説はウソを伝えるものなのか:

小説は創られた物語 小説には真実が含まれる