もの知らず日記

積み重なる駄文、天にブーメラン

つまらない人

 世のなかつまらない人が居るものだ。かくいうわたしが面白い人間だとは思っていない。けれども、あまりにもつまらない人が居るのだ。例えば、「ふとんがふっとんだ」とだれかが言って「つまらないね」と言う人は、いささか優しさに欠けるのかもしれないがまったく問題ない。けれども、「そんなわけないだろ」みたいなことを言う人はなんなのだ。しょせんダジャレだと言うのに、彼らはなんでも字面そのままに理解しようとするのだ。

 わたしたちの大半は「ふとんがふっとんだ」がおそらくもっとも有名でもっとも下らないダジャレであることを知っている。だからわたしたちは「つまらないね」などと冷ややかなことを言ったり、場合によっては大笑いをすることもあるかもしれない(見たことがないが)。いずれにせよ、会話している人たちはともにダジャレのレベルで語り合っている。ところが彼らはそのレベル合わせが出来ないものだから、わたしたちがダジャレのレベルに居ても、彼らは現実のレベルに居つづける。彼らにとってはそれが唯一無二のレベルであり、その下にさまざまなレイヤーがあることを知らない。いや、知ってはいるのかもしれないが、現実のレベルにしがみついている。彼らの切り返しはつねに、「下らないダジャレだ」ではなく「ふとんが吹っ飛ぶわけないだろ」なのである。

 この手の話は、興趣を理解できる自分(書き手)と理解しない相手(批判対象)という上から目線の話になってしまう恐れもある。「ハッ、あの議員のあの発言は、しかじかの名著の引用で、あの議員を道化になぞらえてバカにしたジョークなんだよ。そんなことも分からないなんて」などと言ったところで、特定の文脈を理解できる自分が、できない人びとを見下しているに過ぎない。そこには見下すいやらしさがある。けれど、これはそんなに高度な話ではなく、「ふとんがふっとんだ」レベルの誰でも理解できると思われるような文脈が通じない人が居るのだ、ということに対する率直な驚きに過ぎない。「屋根が吹っ飛んだ、やーねー」と言えば、彼らは「なんという話だ、不謹慎だ、撤回しろ」と怒り出す。まったく、下らないダジャレを発したその口が、開いたまま塞がらないような話である。

雑記:面白いと思って読んでいたブログがことごとく更新停止に陥ってゆく。人間が感じられる文章、よいブログだったのに。まったく悲しいことです。

父親嫌い

 つい最近まで父親が嫌いだと思っていたのだが、「見ていられない」と言ったほうが的を射ていることに気がついた。好き嫌いでいえば、親だから当然好きなのだ。好きだからこそ見ていられないという思いがする。クイズ番組を見れば解答を間違えるゲストを見て必ず「バカ」と言う。「そんなことも知らないのか」と言う。自分の分からない問題があれば、スマホで調べて「答えはこれだ」と威張り散らす。それでもゲストが間違えると「バカ」と言う(自分も分からなかったのに……)。母がバラエティ番組を見ようとすると「バカ番組」と言う。「お前はそういうのが好きだよな」と言う。「晩飯作ってやる、なにがいい」と聞いてくるが、こちらが「照り焼きチキンがいい」と言うと「それならポトフのほうがいい」などと言う(料理のジャンルがまるで違うのは、自分が作りたい料理があらかじめ決まっているからだ)。ハンカチーフの色を変えるマジックで、観客のリクエストを「あ~黄色はお休みなの(こんな口調だったか?)」などとごまかすマギー史郎さんのようだ。しかも本家と違ってただただ不愉快である。

 むかしの父はこんな人ではなかった。立派に務めを果たしていたからこそ、その知識にもつねづね尊敬の念を覚えたものだ。そして、すこし大げさに言えば、周りにも誇ることができたのだ。けれども今では、何もせず、過去の業績にしがみついてただ他者を否定するお山の大将になってしまった。きっと、失われつつある自尊心をそうやって他者を否定することで埋め合わせようとしているのだ。それは、何の努力もせずに自尊心を取り戻すもっとも簡単な方法だから。年老いて出来ないことが増えてゆく自分を、そうやって支えようとしているのだろう。ちょっとお高いレストランで「このソースはちょっと塩気が足りないね」などとほざけば、自分が料理の分かる、エライ奴なのだと思い込むことが出来る。高級レストランの上に立ったような気分になれる。そんな楽しみ方しかできなくなってしまった父の、淀みきった心の濁りを晴らしたい。

 もっとも、では自分は年老いたときにそのようにならずに居られるかと考えると、その自信もない。けれど、そのような淀んだ心で晩年を生きるのは、あまりにも悲しい。心が歪めば、人は遠ざかり、人が遠ざかれば、心は歪む。そうしてますます世のなかに対する偏見が強まり、やがては誰にも尊敬されずに一生を終えなければならない。考えるだけでも恐ろしいことだ。

 もはや父と心から本当に会話をすることは無いのかもしれない。きっと父は、最期のときまで自分の心をごまかしながら生き続ける。自分が情けない。申し訳がない。そんなことは思っていても口には出来ない。世に言う「男のさが」というやつかもしれない。それが出来たときこそ、美しい、裸の心に戻れると思うのだが。わたしも死ぬ心構えというものをしなければならないと思う。それで、自戒の意味も込めてこれを書いてみた。

転んだおじさん

 朝の満員電車。閉まりかけたドアに駆け込もうとして、ホーム上で転んだおじさんが居た。ふつうなら周りの人の目もひややかなものになるところだけど、あまりにも派手な転び方だったので、周りの人たちも「大丈夫だろうか」と温かな雰囲気でおじさんを見守っていた。おじさんは、生まれたての子馬のような足取りでなんとか立ち上がると、ふと虚空を見上げて「邪魔なんだよォ!」と叫びを挙げた。その叫びを無視するかのようにドアは閉まり、電車はおじさんを乗せて消えていった。

ステーキ

 都会人を気取って、新宿の中央公園あたりをぼけーっと歩いていたら、タッタッタッターと群衆の足音が聞こえて、なんだろうと顔を上げたその口にステーキを押し込まれるイメージです。そこでわたしは自分が田舎者であったのだと思い出すイメージです。まだ行ったことはないです。

祖母のお弁当

 「ばあばのお弁当はいや」と言われた、という話を聞いた。話によれば、その家ではふだん母親が弁当を作るのだが、それが出来ないときは祖母が作るのだという。そして、ほかの子たちのお弁当がキャラクターをかたどった華やかなのに対して、祖母が作った自分のお弁当はさみしいから嫌だ、ということらしい。

 物事を見た目だけで捉えてしまうのだ。キャラ弁にだって、思いやりの詰まったお弁当もあれば、親の自己満足的な趣味に過ぎないものもあるかもしれない。他方、質素な弁当にしても、季節感や食べやすさを考えながらつくったものもあれば、腹を満たすことさえ出来ればいいだろうと、その程度の思いやりしか込められていないお弁当もあるだろう。けれども、その子にはそういうことは見えていない。”キャラ弁”であれふつうのお弁当であれ、そのお弁当に想像力を向けてみれば、いろいろなものが見えてくる。そのように育ってほしいと、見知らぬ他人の子にわたしは願うのである。

 もちろん、毎日のように弁当を作る母親にとって、毎日のようにそのような思いを込め続けるというのは尋常なことではない。ただ、「ばあば」がつくったそのお弁当は、間違いなく孫に対する思いやりに満ちた弁当である。見た目や美味しさというものは、分かりやすいけれども、それがすべてではない。一目見て美しいと思い、醜いと思う。一口食べて、うまいと思い、まずいと思う。けれども、さらに心で味わうというのも大切なことだとわたしは思う。

 心で味わうには、心が穏やかであることがまず欠かせない。そうでなければ、命を頂くだとか、作り手の心遣いなど面倒くさい考えて食べる余裕は無いだろう。同じように、物事を見ても心が穏やかでなければ、見やすいものだけを見て、感じやすいものを感じるだけになってしまう。そういう心の動きは、人が理性と呼ぶものにも強く影響を与えて、物事の因果関係を安直に結びつけてしまったりもする。即断即決、なんともせせこましい人たちではないかと思うのである。わたし自身、そうならないように自戒するためにこれを書いたのだ。

 お弁当の話からだいぶそれてしまったけれども、こういうこともあって、わたしは、心で味わうということ、また子どもはまずその心をはぐくむことが、すくなくとも幼少のころには肝心のことだと考えている。