もの知らず日記

積み重なる駄文、天にブーメラン

読書日記 - アンドリュー・シャルトマン「『スーパーマリオブラザーズ』の音楽革命」

 2023年、「スーパーマリオブラザーズ(以下、マリオ)」の"あのテーマ"に切り込んでくれる本がようやく現れた。マリオの"あのテーマ"だけで一冊の本にしてしまうのだから、贅沢というしかない。

 著者のシャルトマンは、マリオがゲームに革命を起こしたと言うだけではなく、その音楽もゲーム音楽の歴史を変える革命的なものであったと考えている。私たちはその音楽自体はいつでも口ずさむことが出来るほど親しんでいるのだが、本書を読むと改めてハッとする。

 有名な「地上BGM」の冒頭からして、言われてみれば確かに簡素化された9の和音だ。これはおしゃれな和音……不協和音で、近現代のクラシックやジャズを連想する。イントロが終わると有名なテーマが現れるが、実は異なるリズムが複雑に重なっていて、何とも言えない躍動感が生まれている(これは、没にした曲のパーカッションをたまたま持ってきたらしい)。あるいは、音程の平行移動や、緊張と緩和の対比など、ひとつひとつはシンプルでありながら、それらが綿密に積み重ねられることによって世界観の表現がなされている。

 これらはプレイヤーをゲーム世界に引き込むための音楽的な仕掛けだ。コミカルな「プレイヤーダウン(穴に落ちたときなどの曲)」やどこか安らぎを覚える「ゲームオーバー」も、「もうダメだぁ」ではなく、「また遊んでね」というメッセージである。そうしてあの地上BGMに戻ってゆく。

 マリオの音楽は、その全てが連関した一つの作品として構成されている点で、アルバムと言った方が良い。それらは、個々の単なるBGMであることを超えて、プレイヤーの心理や身体性と結びつくように作られている。あの時代、わずかな容量の中で、コンセプトを徹底的に追求した創造的な作品なのだなあと感嘆する。

 ここで一つ面白いのは、技術的な制約が創造性をもたらした側面もあったということだ。今でこそフルのオーケストラを用いることが出来るけれど、当時はたった三和音とノイズしか無かった。そのなかで、いかにプレイヤーを引きつける音楽を生み出すか。形式、メロディ、パート、リズム、あらゆる要素を限界まで駆使して、誰もが知るあの音楽を作り上げた。そのことは、むしろ制約が取り払われた今の時代にこそ、大切なことを教えてくれるような気がする。そんな小難しい話を抜きにしても、クラシックの研究者がマリオの”あの曲”を語る、というだけで面白いから、間違いなくおすすめの一冊だ。

 

読書日記 2023/12/1-12/13

ジョルジュ・シフラジョルジュ・シフラ回想録」

 超絶技巧で名高いピアニスト、ジョルジュ・シフラの回想録。シフラもまた時代に翻弄された人だった。極貧と戦争に関する記述が大半を占め、「ピアノに腰かける青年」の姿はほとんど見られない。華やかなヴィルトゥオーゾの姿も見えない。戦地に赴き、投獄され、それでもピアノと再会を果たすのは宿命としか言いようがない。圧倒的な技巧で知られるシフラの演奏には賛否両論が付きまとったが、それも過酷な環境を生き抜くために選んだ道だったことを思えば、ただその到達点の高さに敬服するしかない。

 どう考えても、輝かしいピアノ作品に理想的な演奏解釈をもたらす〈神聖不可侵かつ不朽の流儀〉に関して、私にはまだ多くの学ぶべきことがあった。しかし私はそうした〈掟〉を大して気にとめることはしなかったし、むしろ鬱陶しいものとさえ思っていた。私にしてみれば、苦労して習得し直した〈熟練の技巧〉(私を中傷する人間でさえも〈大展望のようだ〉と口にしていた)をうっかり手放すことのないように、適切に編曲を組み立てる――すなわち技術者(脳)と試験操縦士(手)からなる機械仕掛けに上手く油をさすことのほうがずっと大事なのだった, 252-253.

 Wikipedia(2023現在)には「演奏の際には、決まって革の腕輪をはめ、囚人時代の屈辱を忘れないようにした」とあるが、本書の273ページには収監時の過酷な石材運搬による後遺症で手首が腫れ上がる痛みを軽減するためにリストバントをしていた時期があると書かれている。それと関連しているのだろうか?

トーマス・トウェイツ「ゼロからトースターを作ってみた結果」

 文字通りゼロからトースターを作ろうというとんでもない発想。ユーモアあふれる文章の中に現代への批判がチクリと入っていて面白い。例えば、グローバル化で生産と消費の繋がりが見えにくくなっていること、その過程で環境への深刻な影響があること、そうした目に見えないコストがきちんと反映されていないことなどで、食品にしても衣類にしても全く同じ話だ。

 それでも本書が特異なのは、机上の話ではなく、わざわざトースターを選んで、それをゼロから作るというアプローチをとっている点。なぜトースターなのかと言うと、トースターは「あると便利、でもなくても平気(中略)、古くなったら捨てちゃうもの」のシンボルだからだと著者は言う。それと、ダグラス・アダムスのSF小説「ほとんど無害」で、未開の惑星を訪れた主人公が自分の知識で文明をもたらしてやると息巻いて頓挫したときの一言、「自分の力でトースターを作ることはできなかった。せいぜいサンドイッチぐらいしか彼には作ることが出来なかったのだ」という一文にちなむそうだ。

 それにしても、プラスチックやニッケルを製造する難しさよ。そりゃ近代以前にはプラスチックは生まれなかったわけだ。それも最終的にはチョコを溶かして再び固めて手作りだと主張するけなげな女の子(偏見)のような作り方をしていて「ゼロから」ではないと思うけど、本書の軽妙なノリで行くなら、まぁ、細かいことはいっか!

天野篤「天職」

 心臓血管外科医の天野さんは数々の本を出されているけれど、本書は2021年3月教授を退任される予定のときに書かれた自伝的な本で、バイタリティに溢れる一冊となっている。仕事に悩む人も勇気をもらえるんじゃないかと思う。医者の世界ではエリートとは違い、つねに異端児であった著者だったからこそ、また誰よりも人の悲しみが分かる方だったからこそ、「人のため」を原点にしてQOLを高める治療を早くから実践出来たのだと思う。若いころの驕りや遊興に明け暮れた日々など、不都合な話や失敗談も省察されていて教訓に富む。勇気をもらった一冊。

(以下商品リンク、アフィリエイトではありません)

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どこで本を読むか?

どこで本を読むか、自分なりの感想をあれこれまとめてみた。

自宅

家族がうるさい。誘惑が多い(パソコンでやりたい作業があるなど)。

外出しないので本を持ち運ぶ手間が無く、家族がいないときは最適。

カフェ・喫茶店

良い感じの雰囲気だと良好。適度なノイズ。ただし飛び抜けてボリュームの大きい人が来ることも多く、そうすると気が散る。

パソコン作業や通話も多くて気が散る。

一時期スタバやタリーズにハマっていたけど、本を読みやすい場所かと考えるとそうでもなかったなと今は思う。

お気に入りの喫茶店があって、そこはたいてい静かで、集団客もみんな私のような根暗(失礼)が多い。ノイズも理想的で、屋外では圧倒的に最適。第二の自宅みたいな感じ。

公園

人口密度では理想的(人と近くはないが、完全に孤独でもない)。

ただし、季節・時間・日照など条件が限られる。虫が多いと不可。

と考えると、意外と難しい。冬は寒く、夏は暑い。春は虫が多い。

「読書の秋」ってそういうことなのかな……(たぶん違う)。

電車

軽い読み物には良い。さほど感情移入しない小説や雑誌を読むのに最適。

笑える小説や泣いてしまうような小説は、周囲から変な人認定されかねないので危険。

考えさせられる本は乗り過ごす危険が高いので危険(何度か経験あり)。

図書館

最近のトレンド。今までは眠ったりして閲覧席を独占している人が多かったのだが、近年は図書館もハイテクになり時間予約制が導入されたのが大きい。

難点は思いつかない。強いて言えば近くに変な人が来た場合くらいか。

まとめ

以前はカフェや公園で読んでいたのだけど、今の自分は、自宅か図書館、お気に入りの喫茶店が最適かなと。ただ、喫茶店もたまーにうるさい人が来るので運要素はある。

本当に一番良いのは、大学図書館

自宅は家族がガチャガチャ騒いでいたり、部屋に飛び込んでくると読書は厳しいので、「起こさないでください」っていうホテルのアレを掛けようかと真剣に検討している。

感想「コンビニ人間」

 小説はあまり読まないのだけど、今さら「コンビニ人間」を読んだ。面白かった。ただ、どう面白かったかと聞かれるとうまく考えがまとまらず、むしろ他の人の感想を読むことで自分の感想が浮かび上がってきたような気がする。以下、個人の感想、一人読書会。

 初めに他の人の感想を読んで思ったのは、「主人公(恵子)はありふれた普通の人間」という感想への違和感です。いや、普通ではないよなあと。たしかに、コンビニという職場に居ることによって社会と繋がっている人間、仕事そのものがアイデンティティになっている(=仕事を取ったら何も残らない)仕事人間という意味ではありふれた人間かもしれないけれど、小学生時代に喧嘩する男の子たちを止めるためにスコップで殴ったとか、やっぱり普通ではない。目的に対して倫理観をすっ飛ばして合理的に考える傾向がある。

 とはいえ、この小説がそういう「異常」な人間を個性として肯定したり、「普通」であることを強制する社会のいびつさを描いているのかというと、それもそんなに説法めいた感じはしない。ただそういう社会があって、主人公の恵子もそれを感じていて、なんとか適応しようとする。その成れの果てがコンビニ人間だったのだなあ、という気がしています。

 恵子がコンビニという場所について語るときの、「強制的に正常化される」「異物は排除される」という言葉が印象的です。生まれも育ちも異なるさまざまな人間が、マニュアルの下で同じ「店員」として作り変えられる。そこにやってくる「客」も同じです。そして異物として生きてきた恵子は、自分が「店員」になることによって、正常な人間として生きる術を見つける。それはある程度成功して”いた”んですね。両親は社会不適合の娘がアルバイトを始めて「普通」になったと知って喜んだ。

 けれども、30代も半ばになると、独身かつコンビニ店員であることが女性としてどうなのか、という社会の圧力が主人公を襲います。主人公はそれにも適応しようとして、白羽という訳の分からない男と同棲生活を始めます。主人公の妹は、色恋沙汰のない姉も同棲を初めて、やっと「普通の人間」になってくれたのかと喜ぶのですが、主人公にとっては社会の圧力に適応するための方策に過ぎず、性愛はまったくありません。目的に対してとにかく最短経路を突き進むような、短絡的過ぎるともいえる考え方を、妹や家族や周囲の人間は「異常」だと言うのです。

 白羽の同棲生活をきっかけに、コンビニの「店員」たちも主人公を「普通の人間」として見るようになってゆきます。恵子目線で読んでいると、ずっと同志だった「店員」がみんな寝返ってゆくような場面で、もうここは絶望しかないんですよね。

 このように、幼少期からずっと「普通」になろうと努力をし続けた恵子の遍歴を読むと、自分がどこまで行っても「人間」ではなく「コンビニ人間」なのだと自覚した最後は、恵子にとっては本当の自分を手にしたような幸福感に包まれたハッピーエンドだったのではないかなと思います。けれどそれは、普通であろうとするために努力し続けてきた自分が、自我そのものに張り付いて剥がれなくなってしまったかのような息苦しさも感じるんですね。本当は役割を演じて、そこに周囲の人間の顔を貼り付けることで人間として振舞ってきたのだけど、その仮面が取れなくなって一体化してしまったような。ピエロの悲哀と言いますか。

 してみると白羽という男は表面だけでも取り繕ってきた恵子とは対照的で、丸裸で社会に打ちのめされた人間のようにも思えます。縄文時代のオスメス理論(謎)を唱えて、自分を正当化している。暴言もどこかで聞いた他人の受け売りを繰り返しているだけで、その空虚さはどこか恵子に似ている気もするんです。けれど、やっぱり恵子とは違って、白羽は徹底的に異物。コンビニの論理から言えば排除された人間。恵子を引き留める最後の場面も、白羽渾身の叫びですよね。

 そしてなにより、こうしたことを主人公は客観的に観察しているのが恐ろしい。物語が全体的に何かを主張しているわけではなくて、ただただ主人公が観察者として、自分さえもその対象にしながら描いている視点に、底知れない不気味さが感じられます。

 書きなぐりで考えの足りない部分も多いと思いますが、とにかく面白く読みました。色々な見解が出たり、面白い問題提起をしている小説は読んでいても頭を刺激されますが、この本もそういう類いの本ですね。

 

トリイ・ヘイデン「うそをつく子」

 トリイ・ヘイデンの「うそをつく子」を読んだ。息をするように嘘をつき、さまざまな問題を引き起こす女の子の物語。家族に馴染めず、里親の家庭でも問題を引き起こして、すぐに施設へと帰される。誰もが彼女の虚言癖にうんざりして、半ば彼女を見捨ててしまうのだけど、著者のトリイは彼女と向き合い続ける。

 まともに内容も紹介せず感想だけ書いてしまうのだけど、読み終えて最初に感じたのは、一人の人間の心を解きほぐすには、これほどの手間が必要なのか、という疲労感。はっきり言えば、私自身もたぶんジェシーみたいな子が居たら、関わらないようにするだろうと思う。

 なんといっても、利得や楽しみのためではなくて、理由もなく嘘をつくのだから恐ろしい。そのうえで言い訳のためにも嘘をつくし、ときに攻撃的になって暴力を振るう。里親の家で放尿をして施設に帰されたりもしている。反応性愛着障害に対する知識を持った大人であっても、彼女の問題行動には全く歯が立たない。トリイが他の大人と違うのは、やはり根気強く接し続けたことだろうと思う。支援するためのプログラムはどこかで画一化せざるを得ない部分があるのだけど、その根本には人間対人間の数量化されえないところがあるということを教えてくれる本でもあると思う。

 ジェシーのケースは家庭的な問題があり、そこには社会的な背景もある。母親はうつ病でネグレクト傾向にあり、さほど年の差の変わらない姉が幼いジェシーの養育の多くを担っていた(この時点で何らかの介入が出来ていたら、というのは、私が結末を知っているから言えることだ)。子育てを担う大人たちが病み、子育てを助ける社会的な繋がりが薄れてゆけば、こういうことはこれからますます深刻になってくるのではないか、とも思う。けれど、そうした問題に光を与えてくれる本でもある。まだ、取り返しはつくのだと。

 著者は特別支援学級をはじめ、さまざまな難問を抱える子どもたちと接してきた人物だけれども、もちろんそれは常にうまくゆくわけではない。それでも、「シーラという子」などの前著から変わらず、一筋縄ではゆかない子どもたちに対して、愛情深くそして冷静に、根気よく接し続ける著者の姿勢に、私はただただ脱帽するばかりだった。人と向き合うって、大変だ。