もの知らず日記

積み重なる駄文、天にブーメラン

「フランダースの犬」を読みました

 フランダースの犬を読んだら、けっこう印象が変わった。アニメ版で、ネロがパトラッシュとともに安らかに息を引き取る場面はあまりにも有名だ。だけれど、わたしはそこしか知らなかった。物語についても、漠然と「善良な少年が村の人々からいじめられて死んでしまい、それから周りが改心する話」だと思っていた(単純すぎる笑)

 けれど、原作を読んだらそれだけじゃなかった。まずネロはただ純朴で聖人のような少年というわけではなくて、画家として成功するという若者らしい夢と野心を持ち(そしてその才能もあった)、アロワという女の子に恋をする、とても人間らしい少年だった。

 パトラッシュも、ひどい虐待を受けて死にかけていたのを、ネロとおじいさんに救われるかたちで出会っている。だからパトラッシュはネロをあれほどに慕っていたのか。

かわいそうなパトラッシュ

 パトラッシュは最初、乱暴な主人のもとで荷車を引かされ、食事もまともにもらえず、虐待を受ける日々を過ごしていた。そんなパトラッシュにとってネロとおじいさんはまさに命の恩人。だからパトラッシュの原動力はつねにネロとおじいさんに対する一心の愛情だった。

 そしてまた重要なことは、そういう生い立ちにあるパトラッシュは、ネロよりもこの世界の非情さを理解しているということ。パトラッシュは、ネロの夢想がある部分で若さゆえの思い上がりであると知っている。それでもパトラッシュはそれを否定しないし、自分のために生きるよりもネロとともに死ぬことを選ぶ。そう考えると、パトラッシュの行動の重みがいっそう感じられる。

「貧しい少年」として生きること

 一面から見れば、社会福祉制度のない時代の恐ろしさという話かもしれない。ネロと年老いて弱りゆくおじいさんは周りの人びとの善意でなんとか食い扶持を繋いでいたけれど、その善意が外されたときに生きることが急激に難しくなる。そしてじつは誰よりも絵の才能があって、じつは第二のルーベンスともなり得たかもしれないネロが、死ななければならないところまで追いつめられる。では何に追い詰められるのかといえば、それは周りの人びとの無関心であり、「貧しい少年」という偏見だったのだろう。

 そう考えると、無関心ではあっても税金を勝手に巻き上げられて(もちろん恣意的な重税は論外にしても)、勝手に貧しい人にも分配されるという仕組みは、人びとの善意”のみ”に頼るシステムよりはよほどマシなものだと言えるのかなと感じた。

読んで思ったこと

 読んで最初に思ったのは、「アロワ(アロア)とその母は、ネロをなんとかしてあげられなかったの!?」ということです。ネロのことを想っていて、しかもアロワはネロの死の気配を感じ取っていてもおかしくないのに、なぜ止めなかったのかということ。悲しい話は大体そうですよね。悲しい結末が嫌で、「周りはこうできただろ!」と思ってしまう。けれどアロワたちは本当に何かもっと出来たんじゃないかなぁ……。絵の才能も知っていたわけだし。そこがなんだかアロワのイメージがすっぽ抜けていて、まだつかめていないです。

 そして次に思うのはやはり「ネロはなぜ死を選んだか」ということです。もちろん内容としては分かるのですが、心情的にまだ読み切れていないです。それまでずっと不遇だったこともあり、さらに放火の疑いをかけられて孤立したり、文字通り命をかけて臨んだコンテストに落選したり、生きるのを挫くのに十分な出来事が降りかかりました。けれどそういうことがどうやって彼に死を決意させたのか。しかも拾った大金を返し、パトラッシュを置いて、一人で最後まで清く生きようとする。これはネロの夢想家、野心家的な部分とはまったく違うものですから、やはりそれだけ衰弱していたのかなと想像しています。そしてそこにパトラッシュが寄り添うのがまた重みがありますね。人にひどい仕打ちを受け、ネロとおじいさんに愛を与えられ、愛のために死んでゆく。

 ネロの自殺とも言える行動と、それに追従するパトラッシュの行動に対しては賛否両論あると思いますが、そういう生き方もあるのかなあと思いました。そのあたりが分かってくると、最後にネロが見たルーベンスの絵画の意味も分かってくるのでしょうか。

 このようなことを感じながら読みました。全体的には、想像していたよりもドライなところもあり、考えさせられるテーマもありました。才能ある人物が不遇のまま花開かずに死ぬことの悲しさなど。

 ただネロの死後に彼を苦しめていたことがすべて解決するなど、私は物語としてブラックジョークじみたものを感じましたし、そのようにした作者を少し残酷だとも正直感じました。彼が死んでいなければ、彼は間違いなく成功したし、夢も叶っていた。こういう結末にするなんて。ほかの方がどう感じられるか興味のあるところです。

 いずれにせよそういうところも含めて面白く読みました。こういう本は、ほかのひとと感想を語り合いたくなりますね。また読みたいと思います。

クイズ番組を一緒に観てても面白くない人(補足)

 勢いだけで書いた愚痴日記を森淳(もりすなお)さんに言及して頂き、恐縮しっぱなしです(正解はどちら? - モリノスノザジ)。ありがとうございます。

 返事をしたいと思ったけれど、長くなって「面倒くさい奴リスト」に行くのが間違いないのでやめた。

 わたしの一番言いたい部分をまとめると、(1)検索するというのは(感覚的に)ズルであり、(2)考えている人にバラすというのはネタバレと同じような無神経さが嫌だ、ということだ。だからそんな人とはクイズ番組を観ても面白くない、ということになる。もちろん、わたしは日ごろからこのようなことを考えながらテレビを観ているわけではない。プロセスとしては真逆で、日常の違和感を言語化するとこのようなことなのではないか、という話にすぎない。

 検索がズルだというのは、別に視聴の仕方にルールなどあるわけもないが、荒唐無稽とまで言う話でもない。我が家のお茶の間における暗黙のルールに反しているのだ。クイズ番組の出演者らは、ふつう自分の知識や思考、頭のなかにあるものだけで勝負をしている(演出上の調整などがありうるとしても)。お茶の間においてもそのルールを継承したうえで「これが正解では」と話し合うことで盛り上がる。ルールの上にゲームがある。だが検索はこのルールから外れる。それでも自分のなかだけのルール違反なら何の問題もないのだ。

 しかし考えている人にバラすのは問題であろう。他人にバラすかどうか。ここが境界線だ。もちろん例外(検索が正当化される状況)がないとは言わないが、人にとって考えたり想像することが楽しみであるとするなら、それを奪うという点ではネタバレと同じくたいてい嫌われる行為ではある。

 裏を返せば、(1)検索というズル、と(2)ネタバレと言う無神経さ、この2つが揃っていなければいいのだ。だから、森さんが指摘されている「調べずとも正解が分かってしまったときにそれを言うのはセーフだろうか?」という問題は、わたしのなかではほぼセーフだ。検索というズルをしていないからだ。そしておそらく無神経でもない。頑張って考えている人を前にあっさり答えをバラすというようなことは、「一緒に楽しむ」という感覚を持つ人ならばほとんどしないだろう。

 それに、自分の知識や考えた結果というのは、「1+1」の答えのようにどれほどそれが確かな確信であろうと、あくまでも「解答」でしかない。「正答」ではないのだ。だが検索するということは「正答」をのぞき見るということだ。そのうえで威張るということは、いわば算数のドリルの「答え」をのぞき見て「この問題の答えはこうだ、どうだ、この問題が分かる俺はすごいだろう」と言うのと同じことであり、もはや何を自慢しているのか分からない、という話なのだ。すごいと思われたいという欲求が強くなりすぎると、こういう滑稽な迷走をしてしまって、結局すごいと思われるどころかますます人が離れてゆくものだ。そうならないよう、戒めとしたい。

F. Chopin, Etude in C minor, Op. 10-12.

 ショパンのEtude No. 12, Op.10-12 を打ち込みました。いわゆる「革命」です。この呼び名は作品番号も不要でとても便利ではあるのですが、ショパン自身はそのような表題をつけていないという点はやはり無視は出来ません。かりに革命を想起して作られたものだとしても、そのように解釈が固定されてしまうことを望まず、演奏者や聴衆に解釈をゆだねるというのが、ショパンの作品に対する思想だと思います(ショパンのピアノ教則本草稿など)。ですから、打ち込むにあたっては「革命」のイメージから離れるところから始めました。

 あくまでもこの曲を自分なりにとらえて、表現してみることにしました。勝手にfz気味に表現していたり、リストをイメージしてみたり、やりたい放題です。10-4もそうですが、革新的でありながらも古典的な前奏曲(いわゆるバロック時代の)を想像したくなるのは考え過ぎでしょうか。

 今回の実験、挑戦してみたのはおもにペダルの指示です。譜面の指示ではほとんどの部分についてペダルを1拍分か1拍半だけ踏むように書いてありますが、現代のグランドピアノでは違和感が大きすぎます。では当時の楽器だったらどうなるのか。それをPianoteq のバーチャルなピリオド楽器(エラール)で再現してみました。

参照した楽譜はこちら(ミクリ編のもの) https://imslp.org/wiki/%C3%89tudes,Op.10(Chopin,_Fr%C3%A9d%C3%A9ric)

クイズ番組を一緒に観てても面白くない人

「クイズ番組」
一緒に観てても面白くない理由まとめ。

  • 当たったことを自慢する→まあ分かる
  • 分からなくて調べる→まあ分かる(けど少しは自分で考えようよ……)
  • 調べた結果を考えている人にバラす→?
  • 調べた結果が当たったことを自慢する→??
  • 上記に加え、その問題を間違えたゲストをバカにする→???

 知識を得たり、課題を達成する(=問題をクリアする)ことで快感を得て楽しむというのなら健全なのだけど、自尊心を満たすために使われたのではたまったものではない。一時期「おバカ」を売りにするタレントが活躍したというのは、自分をバカだと思っている人間(でも実際は優秀かもしれない)からは共感が得られるし、自分を優秀だと思いたい人間(だが劣等感がありそれが出来ていない)にとっては見下すことで自尊心を保つことのできるいけにえのようなものだったからではないだろうか。その意味で多くの人を楽しませることのできる存在だったのではないかと思う。

各駅停車に乗ることについて

 通勤人間の悲しい話。

 急行と各駅停車があるとする。急行に乗れば目的地まで1時間で行けるが、各駅停車だと1時間20分かかる。ただし急行はひどく混雑していて、各駅停車は空いている。ストレスに満ちた1時間と、(相対的に)ストレスの少ない1時間20分。さて、どちらに乗ろうか。

 これまでのわたしなら、迷わず急行に乗っていただろう。早い方がよいし、20分というのはなかなか大きな差だ。だが最近は、各駅停車でもよいではないか、と考えるようになった。加齢による体力の低下と精神力の弱体化により(なんだそれ)、すし詰め状態のストレスのほうが大きくなり始めたのだ。

 たしかに急行に乗れば、各駅停車を選んだ場合よりも20分短縮できる。だが、ストレスによる不利益(不経済?)のほうが大きくなり始めた。そのくせわたしの20分がかつてのわたしの20分よりも経済的に生産性が上がっているとは思えない。いまも昔もかわらず20分は20分だ。そのくせストレスだけは大きくなる。壮絶な座席争奪戦。恥もへったくれもなく猛ダッシュ、わずかに空いた隙間の背もたれに向かって体当たりをかますご婦人。もういやだ。……そう、都会疲れというやつである。

 そんなことを「もう若くない」と悟ったころから考えていて、5年ほど前から時差通学・通勤をしてきた。そしてここ最近、各駅停車ややたらめったら止まる準急(ほぼ各駅停車)に乗るというのを始めてみた。朝夕のラッシュでは混雑を避けられないが、それでもマシであり、時間を外せばなおさらマシになる。時間はかかるが、それはストレスの少ない時間だからよいと思う。それに、各駅に止まろうが意外と大した時間差ではない。1駅1分としても20駅で20分。考えてみたら、なぜ今までこうしなかったのかという話だ。がんばって急行に乗り、すし詰めに耐えに耐えて、ストレスだらけの20分を何百回と重ねてきた。そのほうがなにかを失っているのではないかと思った(”なにか”ってなんだ?)。

 とはいえ、山手線圏内はどうしようもない。丸ノ内線に急行や快速があるわけもない。みな「各駅停車」でみな「すし詰め」だ。このどうしようもないほど莫大な流入人口に涙しながら、マンホールからあふれ出す下水のように、ホームを降りて訳も分からずに改札から吐き出される。帰りはまた最寄りのマンホールから吐き出されるだけの話だ。けれど各駅停車に乗るようになってずいぶん楽になった。これからも、とにかく大多数の都市的生活を送る人びとのすき間を狙い、ゴキブリのように、そして快適に生きようと、ひそかに強く決意した。

 あぁ、帰宅後のポカリがうまい。