もの知らず日記

積み重なる駄文、天にブーメラン

ものの最期

 祖母が30年以上使ってきたガラスのミルクパンが壊れてしまった。祖母の家の台所で、なにかが足りない気がして気がついた。それで聞いてみると、落として割ってしまったのだという。ケガをしなくてよかった、と思った。

 このミルクパンは私よりもはるかに年上でちょっとした敬意のような気持ちを感じないでもなかった。新品は透き通ったべっこう色なのだが、長年の汚れでガラス自体が濁りきっていた。でも強度には何の問題も無かった。祖母はこれで煮物などをよく作っていたが、それを見ることも無くなったわけだ。

 また、我が家の20年以上使ってきた電子レンジも壊れてしまった。今のハイテクな電子レンジとは違って、時間を調節するつまみと、「あたため」「生もの解凍」ボタンしかなかった。20年以上のあいだ、さまざまな事故はあったが無事だった。1分で済むあんまんを蒸し時間と間違えて15分かけて部屋中煙まみれにしてからも10年以上は無事だった。そしてある日突然、冷凍食品を温めていたら、ふっと電源が落ちた。まだ時間ではないのに、どうしたのだろうと思った。つまみをひねってみたが、応答がない。どうやら壊れてしまったようだ。このような最期だった。

 ものはどんなに大切に使っていても、いつかは使えなくなってしまう。だが、人がものを使っているときにはものの最期のことなど考えもしない。そして、その最期というのは、極めてあっけないものだ。

 

それでもわたしは手を洗うのをやめない

今週のお題「冬の体調管理」

 いまわたしがインフルエンザにかかっていないのはたまたまだとしか言いようがない。わたしも感染しないように努力はしているが、その努力と発病しないことの因果関係がどれだけあるのかはまったく怪しいものだ。

 なぜこんなことを書くのかと言うと、感染したくないとさんざん努力をしたにも関わらず感染・発病してしまった人を知っているからだ。彼女は自分がハイリスク群(彼女の場合は重症化、合併症を恐れる)に属することを知っていたので、ふつうの人よりもはるかに対策に気を遣っていた。それでもなってしまったのだ。

 そもそもそのような対策は、コスト的にも作業的にも負担が大きく、続けられるとは思えない。だから、わたしに出来る対策と言えば、健康的な生活を心がけること(十分な睡眠など)、自分や衣服の清潔を保つこと(手洗い、うがい、マスク着用など)くらいしかない。これらを、根気強く、つねに正確に行うこと。この「つねに」というのは、じつはすごく難しい。せっかくアルコールなどの入った手指消毒剤が自宅にあっても、「近所に出ただけだからいいや」などと言って使わなければ意味がない。もし使っていても、手洗いの仕方が雑だったらこれまた意味がない。けれど、一日何万秒と生活していれば10秒くらいはそういう隙が出来てしまうものだ。だから、つねに注意深く心がけるようにしていたい。

 というわけで、わたしはまず「手を”きちんと”洗おう」と呼びかけてみたい。手洗いをしようがうがいをしようが、それでもインフルエンザにはなるかもしれないが、それでもわたしは手を洗うのをやめないだろう。それで少しは防げるかもしれないと考えているからだ。我ながら涙ぐましい努力である。

 流水できちんと洗い流し、アルコール手指消毒剤で、手のひら、手の甲、指のあいだ、指の付け根、親指、親指と人差し指のあいだ、指先、爪のあいだ、くまなく洗う。慣れれば15秒くらいで洗えると思う。まあ、これは病院で聞いたことの受け売りなのだけど。

 お話はここでおしまい。あとはもう少し細かい話をしようと思う。

続きを読む

F. Chopin - Nocturne in E-flat major, Op. 9-2 (with authentic variants)

 ショパン夜想曲第2番(異稿版)を打ち込みました。わたしが解説するまでもない有名作品ですが、こちらはより高度な装飾を伴う異稿版です。

異稿版とは

 ここで言う異稿版とは、大ざっぱに言えば、「ショパンはこの曲をこのようにアレンジして弾いていたのではないか?」と思われる変化(ヴァリアント)を反映したバージョンのことです。具体的には、ショパンが弟子のレッスンの際に楽譜に書き込んだものや、弟子が「ショパンはこう変化をつけた」として残した異稿などに基づいています。これらのヴァリアントの存在は、繰り返しにおいても作品を決して冗長にさせない、即興演奏の名手としてのショパン像をいっそう感じさせるものだと思います。

表現について

 表現については、感情と秩序の両立を試みたつもりです。存分に歌わなければならない一方で、端正に演奏することが求められること、それがショパンのこうした作品の難しさだとわたしは考えます(こうした作品は、感情に傾倒するあまりベタベタしてしまいがちだと個人的には感じます)。そしてこの難題に挑みたかったのです。いわば感情と理性のあいだ。感情表現のためにどこまでテンポの変化をつけるのか。どこまでが「感情」で、どこからが「無秩序」なのか。それは時代によっても違うのでしょうし、難しいことだと感じます。

 具体的には、「左手は指揮者のように正確にリズムをきざみ、その上を右手が自由に歌う」というショパン流のルバートが理想でした(体現出来たとは思いませんが)。ですから、終盤に現れるpoco rubatoという指示は、「正確に刻んできた左手をあえて崩す」くらいの意味に読み取りました。

 全体的にはおおむねインテンポで、ヘアピンや逆向きのアクセント(<)をルバートの記譜とみる専門書の記述などをほとんど無視してしまっています。

 ほかにも書きたいことはありますが、理論のことはさっぱり分からず、語彙力が足りないのでやめます。そもそも冒頭からして、シーソーがまたシーソーときて、ターンのドレドシドドー↑に至るところがソプラノでアアァァアー(^o^)って感じでもうほんとうに切ないのですよね(語彙力)

ヴァリアントについて

 ヴァリアントの内容は、トリルをひげ付プラルトリラー(正式名称知りません^^;)にする程度のわずかな変化から、大胆で長大なフィオリトゥーラ(花が開くこと、歌唱的な装飾)までありますが、いずれも本来のバージョンよりも技術的に難しいものです。とりわけ一気に下降する3度の半音階的重音が印象的です。

個人的な話

 この異稿との出会いは、わたしにとって大きな意味がありました。それは、楽譜の音は絶対だと思ってきた、わたしのちっぽけなクラシック音楽像を一気に覆すものでした。その先に、まるでジャズにも通じるような、ダイナミックな音楽の姿が見えてきました。もしかしたら、クラシック音楽の「伝統」と向き合えば向き合うほど、それは唯一無二の「真正性」に収斂するのではなく、より自由な音楽へと向かうのではないか、と思ったのです。もっとも、それからバロック期の音楽に触れることで、わたしはいっそう驚くことになるのですが……。

 『弟子から見たショパン』という書籍で異稿と出会ってすでに10年以上、2度目の製作でようやく自分の理想の塑像を示すことができたと思います。それは、PianoteqがPleyelを再現してくれたのも大きな一因です。その完成度がどうであれ、ひとつ課題を終えることができた、という思いです。

 参照したのは入手が容易だったウィーン原典版なのですが、ナショナル・エディションだともっと多くのヴァリアントがあるのでしょうか。 気になります。

ティッシュ配りの人/断る

もらう

 ティッシュやビラを配る人を、それとなく見ている。しかも、そのうち何人かはわたしの印象に残っている。

 たとえば、通りゆく人すべてにティッシュを渡そうとして、慌てふためきながら右手を差し出しているおじさんが居た。ぼってりした体格で、酒場が似合いそうだと感じた。慌てふためきながらティッシュを差し出す様子は、すこし恐くもある。昼といえども駅から吐き出される人の数は尋常ではないので、すべての人を対象にするのは千本の手でもない限り難しいと思われる。さぞ慣れない仕事なのだろうと思うと、よくないことだが憐れみも抱いてしまう。そしてその慌てっぷりに、どこか同情もしてしまったのだ。わたしも彼と同じ状況におかれたら、同じことを同じことをやるかもしれない……。

 たとえば、キャップのおじいさんも居た。小柄のやせ細ったおじいさんで、やけに目立つキャップと、いかにも安っぽい白Tシャツを着ていた。小声で何かを言いながら、さっさっとティッシュを持った手を繰り出す。こちらもちょっと警戒してしまいそうなのだけど、先のおじさんに比べて、かなり手際が良い。何を隠そう、この人がティッシュを配るのをわたしは何度も見てきたのだ。むしろ、居るのが当たり前、と言ってもよいほどだった。最近は見なくなったので、彼は元気だろうか、と、ほんの一瞬思うこともある。

 たとえば、とてもかわいい女の子も居た。差別ではないけど「なんでこんな仕事を?」と思うくらいあまりに違和感があった。都市的生活に慣れきっていて、ふつうティッシュ配りの人を見ても何とも思わないのだけど、さすがにこのときは「なんで?」と思った。

 パッと思い出せるのはこれくらいしかない。というか、ティッシュ配りの人を思い出せる時点でおかしいのかもしれない。さすがに顔や声までは思い出せないけれど、その状況を漠然と覚えているのだ。

断る

 こんな話をしておいて言うのも難だが、わたしはティッシュ配りを回避する方法についても考えた。誰かと真剣に考えたいのだが、ティッシュ配りを無難に回避する方法を真剣に考えてくれる友達が一人もいないから、一人で考えた。

 いつもはティッシュをもらうが、今はどうしてももらいたくない……例えば人間と一切関わらずに歩きたい日など、もらいたくないときがある。かといって、面と向かって断るのは申し訳ない。はっきり言えば、遭遇しないことがお互いにとって一番良いと思うのだ。

 そこで、わたしは「人盾」というえげつない名前の技を考えた。他人を犠牲にしてティッシュ配りを回避するのだ。やり方は簡単で、他人を盾にするように、並んで通り過ぎるだけである。手前の人を差し置いて、わざわざ奥にいるわたしにティッシュを配るはずがないし、同時に二人に配ることは出来ない。なんと卑怯な手口だろうか。

 成功率は極めて高い。ティッシュを配り自体が人の多い場所と時間帯を選んでいるため、盾にできる他人はいくらでもいる。慣れると意識せずに出来るようになる。わたしはこの方法で、ティッシュ配りのみならず居酒屋やら宗教やら、ありとあらゆる勧誘を拒絶してきた。それだけ他人を犠牲にしたとも言える。なんと罪深い人間であることか……。天国へは行けないかもしれない。

2019視聴アニメ

 各期ごとに適宜追加予定。各アニメ順不同(おおむねアイウエオ順)。

リストについて

  1. まず、放送前の紹介一覧から気になる作品を片っ端から記録
  2. 一話を視聴後、視聴アニメをリストに残す
  3. 途中で視聴をやめた作品、ほぼ見ていないがいずれ観るかもしれない作品は取り消し線で残す

次:視聴アニメ:2020冬~秋 - もの知らず日記

前:視聴アニメ:2018冬~秋 - もの知らず日記

シーズン

2019秋

2019年秋アニメ : 作品情報一覧 - アニメハック

2019夏

2019年夏アニメ : 作品情報一覧 - アニメハック

2019春

2019年春アニメ : 作品情報一覧 - アニメハック

2019冬

2019年冬アニメ : 作品情報一覧 - アニメハック