もの知らず日記

積み重なる駄文、天にブーメラン

ティッシュ配りの人/断る

もらう

 ティッシュやビラを配る人を、それとなく見ている。しかも、そのうち何人かはわたしの印象に残っている。

 たとえば、通りゆく人すべてにティッシュを渡そうとして、慌てふためきながら右手を差し出しているおじさんが居た。ぼってりした体格で、酒場が似合いそうだと感じた。慌てふためきながらティッシュを差し出す様子は、すこし恐くもある。昼といえども駅から吐き出される人の数は尋常ではないので、すべての人を対象にするのは千本の手でもない限り難しいと思われる。さぞ慣れない仕事なのだろうと思うと、よくないことだが憐れみも抱いてしまう。そしてその慌てっぷりに、どこか同情もしてしまったのだ。わたしも彼と同じ状況におかれたら、同じことを同じことをやるかもしれない……。

 たとえば、キャップのおじいさんも居た。小柄のやせ細ったおじいさんで、やけに目立つキャップと、いかにも安っぽい白Tシャツを着ていた。小声で何かを言いながら、さっさっとティッシュを持った手を繰り出す。こちらもちょっと警戒してしまいそうなのだけど、先のおじさんに比べて、かなり手際が良い。何を隠そう、この人がティッシュを配るのをわたしは何度も見てきたのだ。むしろ、居るのが当たり前、と言ってもよいほどだった。最近は見なくなったので、彼は元気だろうか、と、ほんの一瞬思うこともある。

 たとえば、とてもかわいい女の子も居た。差別ではないけど「なんでこんな仕事を?」と思うくらいあまりに違和感があった。都市的生活に慣れきっていて、ふつうティッシュ配りの人を見ても何とも思わないのだけど、さすがにこのときは「なんで?」と思った。

 パッと思い出せるのはこれくらいしかない。というか、ティッシュ配りの人を思い出せる時点でおかしいのかもしれない。さすがに顔や声までは思い出せないけれど、その状況を漠然と覚えているのだ。

断る

 こんな話をしておいて言うのも難だが、わたしはティッシュ配りを回避する方法についても考えた。誰かと真剣に考えたいのだが、ティッシュ配りを無難に回避する方法を真剣に考えてくれる友達が一人もいないから、一人で考えた。

 いつもはティッシュをもらうが、今はどうしてももらいたくない……例えば人間と一切関わらずに歩きたい日など、もらいたくないときがある。かといって、面と向かって断るのは申し訳ない。はっきり言えば、遭遇しないことがお互いにとって一番良いと思うのだ。

 そこで、わたしは「人盾」というえげつない名前の技を考えた。他人を犠牲にしてティッシュ配りを回避するのだ。やり方は簡単で、他人を盾にするように、並んで通り過ぎるだけである。手前の人を差し置いて、わざわざ奥にいるわたしにティッシュを配るはずがないし、同時に二人に配ることは出来ない。なんと卑怯な手口だろうか。

 成功率は極めて高い。ティッシュを配り自体が人の多い場所と時間帯を選んでいるため、盾にできる他人はいくらでもいる。慣れると意識せずに出来るようになる。わたしはこの方法で、ティッシュ配りのみならず居酒屋やら宗教やら、ありとあらゆる勧誘を拒絶してきた。それだけ他人を犠牲にしたとも言える。なんと罪深い人間であることか……。天国へは行けないかもしれない。