もの知らず日記

積み重なる駄文、天にブーメラン

小さな小品

 私の原点は真似っこ音楽です。好きな曲を聴き終わってしまって、その続きを勝手に考えたり、「僕もこういうものが作りたい!」と思って勢いでやってしまう。プロの木彫りの箱の細密さに感動して、自分でやってみたら、残酷に削り取られただけの悲しい箱が出来あがってしまった、という感じのことを繰りかえしています。

 私にとって「小さな小品」というのは、「ちょっとこんなの作ってみたよ」というくらいの意味合いで、芸術作品として完成された音楽とは真逆にあることを意味しています。鼻歌のようなものです。この小品も、好きな曲を聴いていてノリで作ってしまっただけなんです。拍子から調性まで一緒! フレーズの感じは違いますが、原曲を知っている人には不出来な真似っこ音楽であることがバレてしまって私が恥ずかしくなる、という次第です。

 なにかの世界観や風景をイメージして曲を作ってみることもありますが、演奏されている場面を想像して曲を作ってみることもあります。こういう場面だったら、こんな感じの曲、という感じです。この曲は後者のタイプで、ピアノの上手な人が子どもに向かって「ちょっと弾いてあげる」と言って弾いているような場面を想像して作りました。フレーズごとに「ふぅ」と一息つきながら、曲はだんだん加速してゆきます。最後は沈んで、駆け上がって、と上下を繰り返して力強く。子どもたちの方をちらりと向いて、ちょっとだけ「すごいでしょ」とアピールしている感じです。

 やっぱりそんな思いで作っているとき、作り終わったときが一番楽しいです。聞いてもらえるともっと嬉しいです。そしてまたそういう気分になったらまた作り始めるのです。

4/2 - Presto.

midi programming : Hishaism.
Instrument : pianoteq6. Erard (1922).

お口の恋人、ならぬお口の友達

 最近グミばかり食べていたので、いきおいチョコレートも噛み潰してしまった。舌で溶かしてゆっくり食べればよいものを、がりがり噛み砕いてしまった自分にハッとして、思わず心のなかで「バカ!」と叫んだ。

 チョコレートは小粒だけど、たった一つで何分も楽しむことが出来る。一粒ただそれだけでずっと楽しめるということ。やはり自分にはそれが合っていると思う。これを仮に「一粒」派と呼ぶのなら、もう片方には「二度おいしい」派も居て、その楽しみももちろん分かる。同質な味わいをずっと楽しむよりも、味や食感に変化をつけてあった方が、より多様な楽しみが得られる。

 私はどちらかと言うと、チョコレートにはそうした変化が無いほうがいい。――今ハッとしたけれど、これは「お口の友達」の話である。なにも工夫を凝らした二度三度四度と美味しいチョコレートを一切食べぬというわけではない。ともあれ、お口の友達として考えると、同じ美味しさがずっと続き、かつ飽きが来ない。私にとってチョコレートはそういう数少ない食べ物なのである。その点ではあめ玉ももちろん有力候補で、「あめ玉」派ももちろん居られるはずなのだけど、私にとってあめ玉はたいてい大きすぎる。口のなかでごろごろ転がして、転がして、ようやく適度な大きさになってくる。「あめ玉」派にとってはそれが魅力なのだろう。むしろ、私に合わせて小粒なものなどを作ったら、すぐに無くなってしまうに違いない(小粒でもなかなか無くならないあめ玉を探してみたいなと思った。こんぺいとうはどうか、繊細過ぎるか)。それに比べるとガムはかなり良いのだけど、やはり食べたあとの処理、そして味が無くなったらハイおしまいという感じがしてしまう。「ガム」派にとっては、まさにその味のなくなったガムを噛みつづけるのが快適なのではないかと思う。その点、チョコレートを食べきってから水を飲むと、口のなかはさっぱりするけど、それでもチョコレートの香りが口のなかに残っている。私はこちらを選ぶわけだ。口腔環境という点ではガムのほうがよほどよいだろうなと思う(もちろん歯みがきはしている)。

 そこで最近チョコレートに次いでハマったのがグミで、60円程度で安売り(もしかしてそれ定価では……? といま不安にかられた)されていたので2つ3つ買ってしまった。ぶどう味1つと、オレンジ味2つ。グミも味や香りの濃さと言う点ではチョコレートに引けを取らず、グミを食べて水を飲んだところで水がいろはすみかん味のような感じで喉を通ってゆくに過ぎない。ところが最近グミの恐ろしさに気がついた。後味が爽やかなものだから、ほいほい食べてしまう。それはまだいい。あるとき、というか家で用を足していたのだが、ぶどうグミの香りがした。食べているはずもないのだから、発生源はひとつしかない。2,3度確かめたが、やはり間違いは無いように思う。オレンジ味ではまだなったことがない。というかぶどうグミの件があって以来、トイレでグミの香りがしたときのあの違和感を思い出して、そんなにホイホイ食べなくなった。偶然その後日病院で血液検査を受けることがあったが、当然何の問題も無かった。最初からそんな疑いは一切考えていなかったのだけど、それでもグミは香りが強すぎるし、つい口に運んでしまいやすいと思った(一般的なチョコレートとグミではどちらのほうが香りが強いのだろうか?)。

 そんなことがあって、私のお口の恋人、というよりもお口の友達は、ふたたびチョコレートに戻ってきた。ここまで「あめ玉」派だとか「ガム」派と呼んできたが、現実には、ただこれらを好む人びとがいて、さまざまな好み方があるというだけの話である。「チョコレート」派の私も、「あめ玉」派や「ガム」派の心も持っている。そしてそれを「どのように好きなのか」という好み方の多様さは、私ごときには思いも及ばない。やはり、口寂しさを埋めるお口の恋人、あるいは友達というものは、誰にとってもそれなりにこだわりのある、語りたいところのあるテーマなのではないかと、こう思うわけである。

 さて、こんなことを考えていたくせに、友人への久しぶりのあいさつを、私は噛み潰してしまった。とんだごあいさつだ。自分を叱りつつも、ふたたびチョコレートとともに、チョコレートを味わうようにゆっくりと、落ちついて、日々を過ごしたいと思った。

快適なテキストライフを求めて

 ふと街中でテキストファイルを確認したくなって、そうだOneDriveに保存しているのだからスマホで見られるではないか、と喜び勇んで開いてみたところ、内容が「?????」になっていた。口頭で説明したらおそらくふざけているのかと思われるに違いないが、ただ延々と「?」が続いているのである。「?」と言いたいのはこちらである。なぜきちんと保存されたファイルをきちんと開けないのか、OneDriveよ。調べてみると、文字コードがShift-JISだったのが原因とのこと、あとでわざわざパソコン側から文字コードUnicodeにして保存し直してみたのだけど、こんどは「0x00000~」みたいなデタラメな表示。こうも日本語に対応していないとは。スマホ側の問題だろうか。それで、こんどは次善の策としてUnicodeに変換したファイルをGoogleDriveに移動したところ、こちらは普通にスマホでも開けた。ただ、GoogleDriveのビューアーは黒背景に白い文字で、暗所ではよいかもしれないけれど普段読むにはちょっと目が疲れる。なんとかならないものかと調べてみたけれど、おぼしき記事は見つからず。むむむ。GoogleDriveのビューアーで開けば普通に読めるのだけど。毎度のひと手間が微妙に面倒くさいのです……。

打ち込み日記

 最近、打ち込みたいと思う作品に出会えていない。漠然と「この曲が好きだ」というくらいの思いでは打ち込めない。何千というおたまじゃくしを長さを調節して入力し、ひとつひとつの強さを整え、響きはどうか、さらにフレーズとして破綻していないか、ペダルはこれくらいでいいか、などなどのことを確かめながら、石をひとつひとつ積み上げるように作ってゆく。気の遠くなるようなパズルだ。わたしの求める品質は決して高くはないのだが、それでも演奏としてある程度成立していないと困る。となると、打ち込みはそれなりに大変であって、半端な思い入れではまず頓挫してしまう。「こういう表現もできるのでは」「なぜ誰もこのような表現を試さないのか」というくらいの、傲慢な思い込み、強い問題意識が、気の遠くなるような打ち込みという作業を貫徹する原動力になる。

 今の部分だけでもいくつかの話題が出た。まず私の目指す品質について。私が品質面で目指す目標は、演奏像の骨格を示すこと。人の演奏を再現することは難しく、またその意味もあまりないと考えている。そもそも、私がおもにやっているのは、通常人の弾く作品をわざわざ機械的な方法で再現することである。人と競うのでは、人が弾けばいいではないか、ということになってしまう。出来そこないの焼き直しを作る意味はないと、私は思う。もちろん「だれだれの演奏を再現してみた」と、そういう楽しみ方も有り得るので、それを否定はしない。けれど、私は「ではその人の演奏を聴けばよいではないか」と思ってしまう。

 なぜ打ち込むのか。それは自分にとって打ち込みが表現手段だからだ。ピアノが弾けないから打ち込むのだ。だから、「自分はこうしたいのだ」「こう感じたのだ」という意図だけでも込める必要がある。それが演奏像の骨格を示すということである。伝わるかは知らないが、伝わる”かもしれない”こと。その可能性を与えることが大切だと思う。

 ピアノの打ち込みは、シンプルで奥が深い。ピアノ本体の機構がとてつもなく複雑なのに比べると、ピアノという楽器での表現に関わってくるパラメータはきわめてシンプルだ。まず全体のテンポ。音の高さと長さ。打鍵の強さ(ベロシティ)。ペダル(ダンパーペダル、ソフトペダル)。反面、水平的(フレージング)、垂直的(ハーモニー)にきれいになるように音の面倒を見なければならないので、それはピアノならではの面倒かもしれない。それでも、やること自体はこれらのパラメータをいじることだけだから、シンプルではある。

 自分でいちばん満足したのは、ショパンのエオリアン・ハープだった。客観的な出来具合は分からないけれど、一番楽しかったし、自分のしたいことが出来たと思えた。はじめこの曲に対しては、動く内声のフレーズをあえて強調しない演奏を作ってみたいという思いがあった。この曲はアクセントのついた高音と、和声の微妙な変化が美しい作品で、それが第二のメロディのように聴こえてくるところがあるとわたしは思っている。そしてその第二のメロディを、「私は分かってますよ」と言わんばかりにわざとらしく示すのではなく、ほのめかしたいと思った。それは聞き手に「聴かせる」のではなく「聴こえてくる」音であるべきだと私は思う。もちろん逆の場合、「聴こえる」のではなく「聴かせる」べきときもある。けれどこの作品はそうではないと。

 あと打ち込んだもう一つの理由は、単純に、響きの美しさを求めてみたかったということ。これもいろいろ試した。伴奏形に合わせてベロシティを変えたり、音の高さ(保続する時間が違う)を考えて、とか、いろいろやったけど、結局はシンプルに同じベロシティでやったほうがうまく行った。たしかにベロシティを変えて調節すると、響きは均一になるのかもしれないけれど、強弱が違うので打鍵時の鋭い音がデコボコになってしまう。それが響き以上に音の輪郭をガタガタにしてしまった。

 さらに「こういう表現もできるのでは」と思った部分やその実践、そういう曲に出会えていない現状についてぼやきたかったのだけど、あっという間に1700字に達したので終了。

日光

 日光に行ったときのことを記録。紅葉を見ようと思いついた翌日から3連休が入っていた。ちょうど紅葉の時期でもあった。これは旅に行くしかないと思い、急いで予約。リバティという新しい特急があることを知った。これに乗らない手はない。列車の時間よりもだいぶ早く来てしまったので、そばを立ち食い、グミを買いこんだりして時間を潰した。いざ自分の座席に着くと、外国人が座っていた。おそらく相手が日本人だったら「なんだこいつ」と思ったかもしれないが、外国人だと「わざわざ日本に来たのだから」という気持ちが働いてなんとも思わなくなる。自分の思考はなんとも安直なものだ。東武日光駅で別れてから、こういう旅の出会いも面白いなと思った。

 今回の旅の目的はただただ景色を見る、いわば散策と休養であって観光では一切なかった。結果的に、歩き通しの旅になったが。以下、行った場所を列挙。

1日目

15時ごろ着。中禅寺湖華厳の滝。宿に入り9時ごろ就寝。

2日目

7時朝食、8時出発。快晴。中禅寺湖(インド料理屋?の廃墟が印象に残った)~竜頭の滝~小田城ヶ原(徒歩!遠すぎた)。バスで千手ヶ浜へ。徒歩で西ノ湖(地図で見た以上に遠い!)。これだけで夕方。帰り、夕暮れに染まる赤沼のバス停に一人ぽつんと立つ。さすがに心寂しい。宿に帰り、風呂、食事を済ませ、のだめカンタービレを読む。夜10時就寝。

3日目

7時朝食、8時出発。快晴。裏見の滝(ゆるやかな坂が続く。徒歩30分程度、おそらくバイクや車が最善。なぜか安良沢浄水場が記憶に残った。裏見の滝の先には慈観滝、初音滝などがある。こんど行ってみたい)。戻り、寂光の滝(戻るのが大変! 山らしい坂が続く。おそらくバイクや車が最善)。菓子屋に寄り、東照宮見物。名物のしそ巻き唐辛子を土産に買い、東武日光駅。揚げ饅頭を買い食い。バスを待つあいだ金谷ホテルベーカリーのカフェで時間を潰す(静かでとてもいい時間だった)。バスで霧降高原に出る(途中ペンションなどがあった。霧降の滝も見てみたい。高原より先の大笹牧場も行ってみたいものだ)。キスゲ平とはいうが季節外れで人はまったくいない。1445段の階段を上る(おそらく山道を普通に歩いた方がラクでは……)。すれ違ったのは3人(1人と、2人カップル1組)だけ(笑)。展望台の先は赤薙山の登山道に続いている。途中八平ヶ原へ分岐する回転扉があったが、その先は網で完全に封鎖されていた。

 総じて、心休まる、というよりは、歩き倒しの旅だった。観光らしいことをせず、ひたすら日光を歩き通す。帰りの電車では、駅弁を食べてうとうとしていた。不機嫌そうな女の子の隣で、勝手に温まるという駅弁を「プシュー」とやったときは、さすがにすこし気まずかった。