もの知らず日記

積み重なる駄文、天にブーメラン

スティーヴン・ギャロウェイ「サラエボのチェリスト」

 小説はあまり読まないのだが、ときに小説は生きる力を与えてくれることもある。今日読んだ「サラエボチェリスト」も、私にとってはそうだった。

 戦火に包まれたサラエボで自らの危険を顧みず演奏を続けたチェリストと、そのチェリストの演奏に心打たれた3人の物語。

 読んで何より思ったのは、生物として生きていることと、人間として生きることは違うということだ。生きながらにして死んでいる人もいれば、生きるために死ぬ人もいる。それは死を選ぶということではない。彼女は生を選んだのだ。

 生命が脅かされる極限の状況で、彼らは人間として生きる決意をした。それは、いかなる場合にも清くあれというような生ぬるいものでもなければ、砲煙弾雨のなかに飛び込むようなドラマチックな一場面でもない。しかし、それは彼ら自身にとって、顔を、魂を、自分という存在を取り戻す瞬間だった。そして、その自分を取り戻す過程にチェリストの音楽が重要な意味を持っていることを忘れてはいけない。幽霊となった、あるいはなりつつある存在が人間に戻るためには、何かが必要だ。

 悲しみや絶望という安っぽい言葉を通り越えた先に、灰色の世界がある。そして人びとはその中にいる。けれども、灰色の世界から戻ってくることは可能なのだ。「エミナの体は通りに立ち込める灰色に覆われてはいなかった (p. 145)」のだし、「スナイパーは笑顔 (p. 168)」になったのだから。読後よくよく考えると、私はその力強いメッセージに圧倒されたし、頭をぶん殴られたのだ。私たちも「生きよう」、頑張ろう。そう思わせてくれる力が、この本にはある。

 

ロベルト・ゼーターラー「ある一生」

 ロベルト・ゼーターラー「ある一生」を読んだ。最近の私は、人が生きて死ぬことや、老いることを含めて、「生きること(どう生きるか、なぜ生きるか)」についてどう考えるかということに関心があって、その周辺の本をたまに読んでいる。この本も、その一つだ。

 アルプスの山麓で、時代に翻弄されながら一生を生き抜いた男。その人生は妻との死別や徴兵などもあったが、総じてその時代にありふれた、しかし掛け替えのない人生だった。

 主人公のアンドレアス・エッガーは幼くして母と死別し、引き取られた農場主から虐待を受けながら育つ。エッガーは知恵遅れではあったが逞しく成長し、農場主のもとを離れて自力で懸命に働き、人生を切り開く。村の食堂で女性と知り合い結婚するが、雪崩によって奪われる。懸命に働き続け、ロープウェイの建設に多大な貢献を果たす。やがて第二次世界大戦が始まり、エッガーは自らの意志で参加、ソ連に赴く。戦後は地元に帰り、年老いたエッガーはこの地に精通したガイドとして人気を得るが、しだいにこの職を離れ、充実した孤独へと向かってゆく。

 エッガーの人生は、客観的に見れば、ありふれた人生の一つではある。けれども、そこにエッガー自身が「生きてきた」という実感を感じているからこそ、あらゆるものを失い、孤独になってなお、その人生は満ち溢れている。エッガーがこの境地にたどり着く過程に、私は感動した。達観することそのものではなく、その過程である人生がしっかり存在したということを、読んでいて感じた。だからこそ、充足した孤独を抱えながら死を待つエッガーの姿には「エッガーさん、あんたは懸命に生きてきたよ!」と、思わず胸が熱くなった。

 冒頭の「氷の女」にはじまり、数々の人物が提出する死生観は、エッガーと対比してみるととても興味深い。以下、参考になりそうなセリフを引用しておく。読書会にもよさそうだ。

 

死生観

「魂や骨や心や、一生のあいだしがみついてきたもの、信じてきたもの全部だ。なにもかも、永遠の寒さが食いちぎるんだ。そう書いてあるんだぞ。俺はそう聞いたんだからな。死は新しい命を生むって、みんな言うだろ。でもな、その〈みんな〉なんてのは、一番バカなヤギよりももっとバカなんだ。俺に言わせりゃ、死はなんにも生み出したりはしない! 死っていうのは、氷の女なんだよ」, 7

 

「氷の女は、山を超え、谷をうろつく。好きなときにやってきて、必要なものを奪っていく。顔もなければ、声もない。氷の女は、やってきて、奪って、去っていく。それだけだ。通り過ぎしなに、お前をつかまえて、連れ去って、どこかの穴に放り込むんだ。そしてな、土をかけられて、永遠に葬られる前に、お前の目に映る最後の空の切れっぱし――そこに氷の女がもう一度現れて、お前に息を吹きかけるんだ。そうすると、お前に残されるのは、暗闇だけになる。それと寒さだ」, 7

 

(ベテラン作業員トーマス・マトル)「馬鹿馬鹿しい。死ぬときにはなんにもありゃしないんだ。寒さもなけりゃ、魂なんてもっとない。死んだら死んだ、それだけだ。その後にはなにもない。もちろん愛すべき神様だっていやしない。だってな、もしも愛すべき神様がいるんなら、その神様の楽園ってのが、こんなにクソ遠いはずがないからな!」, 51

 

肉体

エッガーは13歳にして成人男性並みの筋肉を持つようになった。14歳ではじめて六十キロの袋を担ぎ上げた。

 

その言葉を、エッガーはその瞬間には理解できなかったが、一生のあいだ忘れることはなかった。「人の時間は買える。人の日々を盗むこともできるし、一生を奪う事だってできる。でもな、それぞれの瞬間だけは、ひとつたりとも奪うことはできない」, 45

 

「死ぬってのはクソだな」マトルは言った。「時間がたてばたつほど、人はどんどんすり減ってく。とっとと終わるやつもいれば、ぐずぐず長いやつもいる。生まれた瞬間から、ひとつひとつ順繰りになくしていくんだ。まずは足の指一本、それから腕一本。まずは歯、それから顎。まずは思い出、それから記憶全部。そんな具合にな。で、しまいにはなにひとつ残らない。そして、最後に出がらしを穴に放り込んで、上から土をかけて、それでおしまいさ」, 51

 

「俺のこのざまを見ろ。腐った骨の塊だ。この場ですぐに塵になっちまわないだけの命が、なんとか残っているに過ぎん。俺はな、一生のあいだ、まっすぐ背筋を伸ばして歩いてきたんだ。神様以外の誰の前にも、身を屈めたことはなかった。ところが、それに神様がどんな礼をしてくれた? ふたりの息子を奪ったんだ。俺自身の血と肉を、この体から奪ったんだ」, 94

 

達観

「新しい住まいの居心地は上々だった。高いところにあり、ときに孤独だったが、エッガーはその孤独を悪いものだとは思わなかった。話し相手は誰もいなかったが、必要なものはすべてあった。それで充分だった」, 132

 

「とはいえ、実のところ、村人たちの意見や怒りなど、エッガーにはどうでもよかった。彼らにとって、エッガーは穴蔵に住み、独り言を言い、朝には氷のように冷たい小川にしゃがんで体を洗う老人に過ぎない。だが、エッガー自身は、なんとかここまで無事に生きてきたと感じており、それゆえ、満ち足りた気持ちになる理由はいくらでもあった」, 134

 

「すべての人間と同じように、エッガーもまた、さまざまな希望や夢を胸に抱いて生きてきた。そのうちのいくらかは自分の手でかなえ、いくらかは天に与えられた。手が届かないままのものも多かったし、手が届いたと思った瞬間、再び奪われたものもあった。だが、エッガーはいまだに生きていた。そして、雪解けが始まるころ、小屋の前の朝露に濡れた野原を歩き、あちこちに点在する平らな岩の上に寝転んで、背中に石の冷たさを、顔にはその年最初の暖かな陽光を感じるとき、エッガーは、自分の人生はだいたいにおいて決して悪くなかったのだと感じるのだった」, 134

 

「出生記録」「子供時代と、ひとつの戦争と、一度の雪崩を生き延びた。決して骨身を惜しまず働き、岩に数え切れないほどの穴をうがち、おそらく小さな都市の住民全員の暖炉にくべる一冬分の薪に足りるほど多くの木を切り倒した。あまりに頻繁に天と地のあいだに渡した糸に命を預け、人生の後半には山岳ガイドとして、人間というものについて理解しきれないほど多くを学んだ。自分で知る限りではこれといった罪も犯さず、酒、女、美食といったこの世の誘惑にも決して溺れることはなかった。家を一軒建て、家畜小屋やライトバンの荷台や、さらにはほんの数日とはいえロシアの木の檻など、無数の場所で眠った。人を愛した。そして、愛が人をどこへ連れていってくれるのかを垣間見た。月面を歩く数人の男を見た……」, 139

 

 

ある一生 (新潮クレスト・ブックス)

ある一生 (新潮クレスト・ブックス)

 

 

「交通事故はなぜなくならないか」

 いつも(というほど書いてないが)の誤読メモ。

 自動車の交通事故について、リスク・ホメオスタシス理論 (Risk Homeostasis Theory : RHT) という考え方があるという。誇張して言えば、安全対策をしても、そのぶんだけ人びとは油断して危険な行動をとるから、無意味だよね、という話だ。もちろんこれは誤解で、実際にこういう誤解から「不幸保存の法則」などと揶揄する専門家もいたようだ。実際にはこんな単純な話ではない。

 ともすれば、人は「交通事故に対して法律や工学的なアプローチで解決するだろう」と考えてしまいがちではある。危険運転を厳罰化しろとか取り締まりを強化しろだとか、車体を強化しろとかエアバッグをつけろだとか。

 ところがリスク・ホメオスタシス理論は、巨視的なレベルで見ると、それらはさほど効果がないか、逆効果になりうるということを指摘している。素人目にはちょっと驚く話だ。え、じゃあ事故対策って意味ないやんけ、っていう。

 リスク・ホメオスタシス理論は、運転行動において人びとは、個々の内面にあるリスクの許容水準のなかで、利潤を最大化しようとする(リスク最適化)と考える。危険な運転をする損得と、安全な運転をする損得を考え、それが均衡する許容水準に合わせようとする。

 ざっくり言えば、かっ飛ばして事故を起こす(またそのことで罰金を科されたり免許停止になる)危険と、早く到着できるという利益などがある。事故は避けたいが早く到着したい。ここで大切なのは、人はそれを比較したうえで、リスクを減らそうとするのではなく、許容水準に近づけるかたちで最適化を図ろうとする

 リスクを減らすのと最適化するのは、似ているようでまったく違う。従来の事故対策が施行されると、人びとの主観的なリスク評価は下がる。だがリスクの許容水準が変わったわけではなく、リスクの評価と許容水準の差は広がることになる。そこで、この広がった差を埋め合わせるかのように、人はそれまでよりもリスキーな行動を選びやすくなる、という。これが、最初に述べた「安全対策をしても、それだけ危険な行動が増える」ということだ。

 内容だけかいつまめば、おおよそこういう話になる。

 ふつうの人は「危険運転に対する罰則を強化しました、人が目の前にいるときに自動でブレーキをかけるようにしました、これで事故は防げる!」と考えてしまうけれど(そんな能天気はいないか)、リスク・ホメオスタシス理論は「ちょっと待てよ、それは人びとの安全運転に対する動機付けになっているのか?」と問いかける。

 じゃあ、どのように対策したらいいのか?

 著者が交通事故対策のアプローチとして指摘するのは、人びとが「受け入れよう」と思うリスク許容水準を下げることだ。先に書いたように、法律や工学的な事故対策をしてリスク評価を下げたところで、人びとはそれを埋め合わせるようにリスキーな行動をとりかねない。ならば、許容水準自体を下げてしまえばいい。要するに、安全運転への動機づけで、それも懲罰ではないほうがいい。小さなアメは大きなムチに勝る、というわけだ。人びとの行動を動機付け、自然と人の行動を安全な方向に誘導するように、制度的なデザインが求められるということだろうと思う。思えば、「シンプルな政府」という本でもそういう話があった。強制力をもって規制するのではなく、人びとの行動があくまでも自発的に望ましい方向になるようにデザインするのだと(ナッジ。肘で押す、という意味らしい)。けれど、リスク・ホメオスタシス理論は80年代に唱えられているからかなり早いと言えるだろうか? 当時の論調を知らないので分からないけれど。

 いずれにせよ、このように人間心理に注目した対策を実現するには、事故対策を根本から見直すことが必要で、でも政府はそこまで交通事故対策に入れ込んでやろうとはしないよねー(雑)みたいな話で終わる。

 人びとの意識に注目するこの考え方がどれくらい実証されているのかは私ごときには分からないけれど、その意外な切り口を面白く思いながら読んだ。

 

交通事故はなぜなくならないか―リスク行動の心理学

交通事故はなぜなくならないか―リスク行動の心理学

 

 

キャロル・ヘルストスキー『ピザの歴史』

 ピザの値段が高すぎる。1枚2000円ってなんだ。「本場ナポリの~」なんて言うけれど、ナポリでは庶民の味方、庶民の食べ物だろ!?

 と、息巻く勢いで手に取った原書房の『ピザの歴史』。ナポリにおいて貧しい人の粗末な食事だったピザは、グローバル化とローカル化のなかで姿かたちを変え、それがまた「ピザとは何か」という根本的な問いを浮かび上がらせる。

 こうした過程自体はいろいろな食品、あるいはモノ全般においてみられるのだけど、ピザの場合は発祥の地であるイタリアとはべつに、アメリカという第二の故郷があるというのが面白い。これはたとえば「寿司に第二の故郷があるか?」と考えてみると、そのすごさが分かる。

庶民食としてのピザ

 そもそもナポリにおいてピザが誕生したのは1734年といちおうは言われている。「真のナポリピッツァ協会」は、この年に「マリナーラ」が誕生したとしている*1。ピザの材料となる小麦やトマト(のちにチーズやバジルなど)はコロンブス交換以来大陸間のモノの移動により可能になったものだということも注目すべきことではある*2

 しかしこの庶民食はナポリを訪れた外国人には人気がなかったらしい。アレクサンドル・デュマは、下層民衆を聖者ラザロになぞらえて「ラッザローニ」と呼んだ。そしてラッザローニの食べものは、夏のスイカと冬のピザであると述べた(それでも、デュマはピザの奥深さについても述べていて興味深い)。また、モールス電信機で知られるサミュエル・モールスにいたっては「下水からすくいあげてきたかのようなパン」とまで書いているし、『ピノッキオの冒険』で知られるカルロ・コッローディも、種々の具材が混在したピザについて「それを売っている商人と同じように汚ならしく見える」と書いている。ひどいっ。まあ、残飯のような余りものをゴチャゴチャ乗せた料理だったんですね。

マルゲリータ

 しかし、こうもこてんぱんに書いてあると、逆にこのピザを好んだ貴族の存在はなんなのかと突っ込まざるを得ない。有名なところでは、夏の宮殿にピザ窯を設置させたナポリ王フェルディナント4世がいる*3。そしてなによりマルゲリータ・ディ・サヴォイア王妃のことを書かないわけにはいかない。言うまでもなく「マルゲリータ」ピザの由来となったその人である。

 ウンベルト1世の妃だったマルゲリータ王妃は、ヨーロッパの王族にとっておなじみのフランス料理にすっかり飽きていた。そこでナポリを訪れた際に、ピザ職人(ピッツァイオーロ)のラファエレ・エスポジトが何種類かのピザを作った。そのうちの一つが、トマトの赤、モッツァレラの白、バジルの緑からなるこのピザだった。ピッツェリア・ブランディ (Pizzeria Brandi) には、当時の王宮料理部長ガッリ・カミッロから贈られた感謝の手紙が飾ってあるという。

ナポリからアメリカへ

 ピザが世界中に広まったのは第二次世界大戦後で、その大きなきっかけは2つあった。ひとつは移民、もう一つは観光業の発達。アメリカにおいても移民が移り住んだアメリカ北東部の都市からピザが広まってゆく。北東部に移り住んだ移民というのは工場などで働く非熟練労働者が多く、つまりあまり裕福ではなかった。アメリカにおいても当初は貧しい人びとの腹を満たす食事だったわけだ。

 アメリカのピザのはじまりは1905年にジェンナーロ・ロンバルディがニューヨークスプリング通り53の1/2番地に開いた「ロンバルディ」と言われている。ただし、他の移民たちも許可なく販売していたから、実際のところはさだかでない。

 やがてそんなピザもアメリカで独自に進化し、クラフトの分厚いピザであったり、パイのようなディープディッシュピザ、イングリッシュマフィン・ピザなどが登場する。さらに企業が冷凍ピザや宅配ピザを作って大々的に展開してゆく。大量生産するために技術を向上させ、また新しいメニューを創造してゆく。映画などでもイタリアの象徴(シンボル)としてピザが登場する(ジョン・トラボルタが主演する「サタデー・ナイト・フィーバー (1977)」など)。

 こうした流行のなかで、イタリアを訪れる人は「本場のピザが食べたい」と思うわけです。しかし当のイタリアでは、ピザというのはナポリという一地方の食べもの、しかも庶民の食べものにすぎなかった。むしろイタリアにおいては南イタリアから北イタリアへの移民だけでなく、観光客もまたイタリア全土にピザというものを広めるのに大きな役割を果たした。これまた面白い。一地方の食べものが世界に広まり、外からの影響がイタリアのアイデンティティをつくりあげてゆく。

伝統と創造

 とはいえ、イタリアのピザとアメリカのピザではあまりにも違いがあった。

 ナポリから見たら宅配ピザチェーン店などが提供するアメリカの「ピザ」はもはやピザではない。ナポリではピザは職人が手作りするものであって機械的に大量生産するものではないし、クラフトも違えば具材もめちゃくちゃ。ナポリ人からすれば、文化が侵食される、誤った文化が広められてしまう、という危機感を覚えたであろうことは想像に難くない。そこで1984年には「真のナポリピッツァ協会 (AVPN : Associazione Verace Pizza Napoletana)」が設立され、1997年にはイタリアにおける原産地統制呼称制度DOC(Denominazione di Origine Controllata)の適用を受け、同協会が「真のナポリピッツァ」を認定することが認められるようになった。

 けれどここには原産地統制呼称制度の問題点も含まれている。審査要件が厳しすぎて、ナポリで庶民向けに営業しているピッツェリアが「真のナポリピッツァ」から除外されてしまう。使用する食材はもちろん、使用する窯やミキサーの種類、焼き方や調理手順といったことを細かに規定している*4。歴史的にみればもともと庶民向けの高級でないピザこそがナポリのピザだったはずなのに、品質を保証するこの認定は多くのナポリピザを除外してしまった。

 ピザには二つの道があるように見える。伝統に回帰する道と、創造へ突き進む道。伝統からの乖離が悪いという話ではない。それは世界各地の食文化と混ざり、あるいはそうした文脈すら持たない新しいピザの登場でもある。それはかつてコッローディが「汚らしく見える」と書いたこととも通じるかもしれない。それに、世界各地で「ナポリのピザ」を追求するというのは、一見伝統への回帰に見えるが、じつはその土地においては新たな創造であるということを忘れてはいけない。

 デュマが書いたように、それはシンプルであるがゆえに広がりがあり、奥が深いということ、それこそがピザが世界各地に広まった本質的な理由なのかもしれない。

 と、読みながらこのように考えていたら、AVPNの認証を受けた店でもなかなかお安い店があるのを見つけた。私は日本のピザ職人を甘く見ていたようだ。

 

ピザの歴史 (「食」の図書館)

ピザの歴史 (「食」の図書館)

 

*1:小麦の生地とトマトからなる「マリナーラ」は船乗りを意味し、船乗りたちが朝食にこのピザを食べたことに由来するといわれている

*2:トマトはもともと北イタリアでは毒があると考えられていたが、南イタリアでは「黄金のリンゴ (Pomi d'oro, 現代ではPomodoro)」と呼ばれ好まれた。ナポリは火山灰地であり、おいしいトマトが育った。

*3:妻のマリア・カロリーナがピザを持ち込ませなかったのでコッソリ窯を作ったという説と、反対に、ピザ好きのマリアのために窯を作ったという説がある。

*4:AVPN「AVPNの国際規約について」

『必笑小咄のテクニック』という本のこと

 ふと『必笑小咄のテクニック』という本のことを思い返していた。ジョークであれば笑いの源泉となるふざけた論理が、ひとたび現実に持ち込まれると人びとを欺く笑えないものとなる。著者の米原万里さんは、ジョークをあざやかに分析しながらも、社会に対する警鐘を忘れなかった。そうわたしは勝手に理解している。そしてそれは国内外の政治においてますます重みを増しているように、わたしには感じられる。

 例えば、面白おかしいウソニュースで知られる虚構新聞の内容について、たいていはバカにして笑うのだけど、心のどこかで「笑えない」と感じたりすることもある。オリンピックに際して猛暑を護摩で吹き飛ばそうというのには笑った。だけれど現実の世界で朝顔のフラワーレーンについてバカにする意見ばかりが目立って、その発想の意味を理解しようとしたり、批判にせよ費用に対する効果などから建設的に展開する意見がなかなか見られなかった。その雑多なノイズにもまた、笑えるようで笑えない、そんなジョーク化した世界の悲しさがあると感じている。

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