もの知らず日記

積み重なる駄文、天にブーメラン

今日の夢

2016年10月9日(日) うろ覚え

再会

 自宅にある自分の部屋と認識している(実際とはまったく違う)。曇り空の明かりが入り込む薄暗い部屋。部屋に入って右側の奥にベッドがあり、左側にクローゼット、右側手前(入り口からは死角になる)に本棚がある。友だちのKさんが居て、あれこれと昔話をする。わたしは窓の近くに行き、「外を見てごらん。前は畑ばかりだったけど、今では家が立ち並んでいる」と言う。それほどに月日は流れていたのだな、と思った。

3人

 あるマンションの下にいる。緩やかにまっすぐ下りてゆく大通りからわき道を上ったところにある。そのマンションの1階の片側は住居ではなく駐車スペースになっており、雑談にはもってこいの場所という感じがする。心地よい晴れ空のもと、昔の友人N君、そして友人のXさん(見た目にはまったく覚えがないが友人として認識している)。Xさんはママチャリタイプの自転車をN君の前に停め、わたしと並んでいる。「このあたりは県境でね、こいつはA県よりはB県(隣の県)のほうが近いんだ」などと、とりとめのない話をする。

矢沢氏

 ガレージにある黄色いマスタング(もちろん実際には持っていない)。女性を向こうの助手席側に案内して乗せ、自分も運転席(しっかり左ハンドルになっている)に乗ろうする。すると、突然矢沢氏が乗り込んできて、どうなっているのか自分の隣に座っている(もちろん実際にはそんなスペースはない)。そしてなぜか横から勝手にアクセルを踏んで発進させ、車は街に飛び出す。思わずわたしが「やめなさい」と抗議すると、「加速させているのは俺じゃあない、君だ」と言う。わたしは抗議することをあきらめ、ハンドルを切って車や人を避けつづける。

散歩

 家族と歩いている。東京ドーム近辺のような光景。しかしドーム周辺に飲食店が立ち並んでおり、実際とは異なる。回転寿司屋を見つけ、入ろうと言いだす。(回転寿司屋の戦いにつながっているだけの夢という感じ)

回転寿司屋の戦い

 何かから逃げている。デパートのレストラン街のような空間を走る。足音が後ろから迫る。じぐざぐになった通路を進むと、いつの間にかそこは回転寿司屋になっている。わたしは回転寿司屋のレーンのまわりを駆け抜け、入り口からもっとも遠いところにある下り階段(どこに通じている?)に足をかけて立ちどまる。

 息を整えようかと思ったその瞬間、飛んでくる寿司のシャリが目に入った。それはあまりに瞬時の出来事で、ハイスピードカメラを見ているような感覚。避ける間もなくわたしはシャリまみれになった。レーンをはさんで向こう側に、ほくそ笑む男がいる。板前の格好をし、見開いた目は不気味なほど丸い。心なしか舛添氏に似ているが、年齢はおそらく20代。わたしは激昂し、地面を蹴る。走ると言うよりは跳ぶという速さ、わずか数歩でレーンを周回して男に迫る。男も逃げるが、逃がさない。ビールなどの入った背の低い冷蔵庫に男を押しつけ、詰問する。

「なぜ店員になりすました!」

「……何のことですか」

「XXというのはあなたの名前ではないでしょう」

 白を切る男の名札を掴み、胸倉を引き上げる。周囲にいる店員もうなづいている。

健康食品のCM

 健康食品のCMはツッコミどころが多いと思う。「個人の感想です」とか「いまなら半額です」とか「30分間だけオペレーターを増員してお待ちしております」とか、「掃除機をお買い上げの方に、いまなら膝サポーターがついてきます」とか、気になるポイントがいくつもちりばめられていて面白い。そのなかでも気になることがある。

 それは、わたしが「脅し」と呼んでいる方法で、健康食品はその方法が用いられる代表的な例である。つまり、脅して救いを与えるのだ。だから、まずは脅さなければならない。やれ体のナントカという成分が加齢とともに激減するだとか、病気になるリスクが激増するだとか、あらゆる手段を用いて中高年を脅しにかかる。そうして奇怪で聞いたこともない成分がそれを救ってくれる。そしてその健康食品にはその成分が何百倍にも凝縮されている。健康な人がそれを使用しているのだから、私も健康を維持できるに違いない。そう思わせたら勝ったも同然である。

 思えば、こういうやり方は健康食品に限ったことではない。例えば、わたしは「雑菌まみれのお部屋」を何度も見ている。カビ取りのCMだったろうか。一見して綺麗な風呂場であっても、そこには目に見えない雑菌が繁殖しきっている。グチャグチャと嫌な音を立てながらうごめく雑菌。わたしたちの生活はなんと気持ち悪い雑菌にまみれていることか。視聴者の不快感が爆発しようかというその瞬間、正体不明の液体が雑菌の群れを吹き飛ばす。なんという救世主。それほどに素晴らしいものなら、登場人物もその液体をかぶって「清潔」になったらどうか、と冗談を言いたくなる。

 「脅し」と問題提起は紙一重だと思う。どちらも「こんなことでお困りではありませんか」と親しげに語りかけてくる点は同じでも、そこに何となく胡散臭さがある。それは、はたから見る分には面白くもあるのだけど、商売として見るとなんとも不誠実なことだとわたしは思う。

 もちろん、それらが客観的に悪いと言いたいわけではない。単に私の気に入らないという、その程度のささやかな感想である。

いきなり顔を表示して恐がらせる手法

 久しぶりに、いきなり顔が現れるというドッキリを見た。話題になっている宣伝のアレである。

 内容としては、物語で引き込んでおいて、最後の最後で効果音(たいてい大音量だ)とともに顔がワッと現れるというもの。てっとり早くドッキリさせる方法としてはすでにおなじみである。だから今回それを見たときも、わたしはどこかで懐かしさを覚えた(それも1割ほどであって、もう2割は怒り、残り7割は”また顔か”という思いであったが)。

 わたしなどは「ウォーリーを探さないで」というFlashの洗礼を受けたタチである。家族と一緒にウォーリーを探していたら、エクソシストの写真と同時に「ウワアアアアッ!!」という大音量が鳴り響く。当時はイスから転げ落ちる勢いで驚いたのだけど、それから似たようなものがどんどん出てきて、ネット上でもおなじみになってきた感じがある。

 しかしたちの悪いジョークならいざ知らず、物語で引きこむ心霊番組などでこれを使うのは面白くないと正直思っていた。というのも、さんざん物語で怖くなってきたところなのに、最後の最後にそんな安易な手段を行使されると、「とにかく怖がらせてやろう」という作為が丸見えになってしまって興ざめしてしまうからだ。物語の終盤まで姿かたちを現すことなく陰から主人公をおびやかしていた幽霊は、その見えない怖さを与え続けていてくれればいい。最後の最後になって突然主人公の眼前に姿を現す必要はまったくない。

 だから、最近見かける”怖がらせる番宣”でも、顔がなければなぁ、などと思ってしまう。物語で視聴者を引きこむなら物語に徹してほしい。けれどもショックを与えるというお手軽な方法で感情移入させる方法は、たいてい誰にでも通じるから便利な方法ではあると思う。だから、そういうものを見るときは「いったい何が起こるのだろうか」とドキドキしているのが半分、そして「どうせ顔が出てくるんだろう」というのが半分。そしてほんとうに顔がワッと出てくると「あぁ~~」と頭を抱えてしまう。こんな偏屈な見方をしている人はたぶん少ない。

 それが演出だよ、そんなに演出というものが嫌いなら、怪談でも聞けばいいではないか――という自分の声がどこからか聞こえてきた。

必笑小咄のテクニック

小咄の分析に隠された社会への警鐘――笑えるのにハッとさせられる本

 米原万里さんの書評を読むと、こういう読み方がしたいなと思わずにはいられません。小説から政治的なノンフィクションまで、ジャンルを問わずこんなに本を楽しんでいる人がおられたとは。楽しんでいることが伝わってくるものを読むと、こちらまで楽しくなってきます。というわけでときどき米原万里さんの本を読んでいて、本書もその一冊です。

小咄を考える面白さ

 この本は、小咄の面白さを分析しようという、ある意味で無粋な本です。本来は悲劇になるところを喜劇にしてしまうブラックなユーモアや、たった一行で物語の全容をひっくり返してしまうオチなど、いくつかの技法を紹介するだけではなく、「さあ、あなたもやってみて」といわんばかりの応用問題もついています。例えばこのような問題。

次のセリフを最後に持ってきて男にしてやって、いやオチにしてやってほしい 「すみません、喫煙者用のボートはどちらでしょうか?」

 この答えをすこし考えてみましょう。――この問題に答えるためには、「変哲のないセリフがおかしくなるような状況はなにか」と考えて、さらにそこに必要な要素を加え、無駄な要素は削り、そうして構成してゆかないといけません。この例題ひとつだけでも、小咄は想像(イマジネーション)の産物であると同時に、テクニックも欠かせないのだということがよく分かります。

笑いに隠された社会への警鐘

 ところが、そうした「笑い」だけがこの本の魅力ではありません。というのは、この本はお笑いとしてのジョークの本であると同時に、われわれの社会へ警鐘を鳴らす本でもあるからです。もちろんジョークにも政治的なものはあるのですが、この2つはもっと本質的な部分でつながっています。というのは、ジョークでは笑いの原動力となる奇妙な論理というものが、ひとたび実社会に持ち込まれれば多くの人をあざむく詭弁となりうるということ、まさにそのことに対する警告の本でもあるのです。

 その意味で、本書の最初にある”小咄と詐欺師の手口は似ている”という指摘は、小咄の面白さについて語るものであると同時に、筆者の社会に対する危機意識の表れでもあるのではないでしょうか。

 米原万里さんのエッセイには政治的な発言が含まれているものが少なからずあり、Amazonなどのレビューではそこに賛否両論があるようです。そうした反応が生じることは十分に予想できます。にもかかわらず筆者はなぜそのようなことを書くのだろうかとわたしは考えていたのですが、ジョークを分析した本書を読んで思わず膝を打ちました。というのは、(繰り返しになりますが)ジョークでは笑いの原動力となる奇妙な論理というものが、ひとたび実社会に持ち込まれれば多くの人をあざむく詭弁となるということ。ジョークの面白さを分析することが、じつは社会に対する危機意識にもつながっているのです。

 あまりお堅いのも性に合わないのでこの辺にしておきます。ただただ小咄について考え笑い転げるのもよし、そこから社会的なメッセージを読み取るのもよし、その懐の広さが米原万里さんのエッセイの面白さではないかと思います。そしてこの短い本ほどそれを感じさせられる本もないと思うのです。

必笑小咄のテクニック (集英社新書)

必笑小咄のテクニック (集英社新書)

とって

家族には「とって」と言えば済む

友人なら「ちょっとしょうゆとって」と言えば済む

あの人には「上半身を右に65度転回し、4本の柱に支えられた茶色い台の上にある白い円盤形の陶器の右隣にある黒色の液体が入ったガラス製の容器を把持し、そこから上半身を戻し左へ35度転回、あなたが友人カテゴリに登録している男性が瓶を受け取ったら放してください」と言わなければならない