もの知らず日記

積み重なる駄文、天にブーメラン

ストレスを味わえる電車

 電車というのは私にとって最大のストレス要因(あれほど他者と接近しなければならない環境はそうそうない)なので、電車に関する愚痴が自然と多くなってしまう。今日も、満員電車のなかでこっちをぐいぐい押してくるおばさんがいた。押すだけならいい。彼女はおしりで繰り返し押してくるのだ。最初はおかしいと思って我慢していた。けどこれは明らかにわざとだ。私が触っているのではない、私が触らされているのだ(語弊が生じる表現ではあるがそうとしか言いようがない)。そうまでしておのれのスペースを確保したいか。しかも、うしろには素足をさらけ出した若い女の子が居る。私が無理に避ければ、こんどは若い彼女の素足にぶつかってしまう。とてつもなく危ない。なぜだ、今日は冷えると言っていたではないか。暖かいのは昨日でおしまいだと、言っていたではないか。原宿だからって、なんで素足を出すのだ。いや、それは言いがかりというものか。つまり、後ろには女の子の素足という壁があり、前方からはご婦人のおしり攻撃が迫ってくるこの状況。背水の陣(それではおばさんに遮二無二突撃するということになってしまうが)。逃げ場のない私。もう泣きそうである。おばさんがこちらをちらりと見る。もういやだ! ここまで考えてしまうのは私の偏執病だろうか、いや、この回避不可能な痴漢冤罪的環境の恐ろしさはただごとではない。横に逃げればいい? 残念、私はすでに外国人観光客のスーツケースで完全包囲されている。と、代々木に着いた! 人が降りた! 私はすかさず後ろに飛び退いた。外国人のスーツケースに盛大にぶつかったが、「ごめんなさい!」と言ったらなぜか通じた感じだった。

文学白熱教室 メモ

カズオ・イシグロさんの『文学白熱教室』を今さら見たので、メモ(何年前だ……)。

小説はほんとうに娯楽の一手段以上のものなのか。

なぜ事実ではない話を読みたいと思うのか。 なぜエッセー、歴史書や科学書ではないのか。 たしかな事実が詰まっていて、確実な知識が得られるのに。

なぜ小説を書くのか

根底にある理由: 薄らいでゆく記憶のなかの「日本」を記録する。見たこと、両親に聞かされたこと。 現実の日本ではなく、秘密裏に残していたかけがえのない「日本」を紙に書き記したかった。

自伝ではない。視覚的感覚的に覚えている世界をつくる。

20代の自分に何かをいえるとしたら:

いまの自分は20代の自分を賞賛するであろう。 若い作家としての自分をうらやましいと思う。当時の自分には湧き上がるように想念を膨らませるパワーがあった。子ども時代とのつながりや記憶を持っていたからだ。20代の作家にしかない独特の力がある。 →花

読者の読み方の限界:

3冊目でイギリスを舞台にした。 普遍的なことを描いていたつもりが、日本のこととして受けいれられていた。 →ナショナリズム 舞台設定やジャンルは自由に動かすことができることに気がついた。

イデアをまとめる:

センテンスで書きとめる。寝かせたり、見返したりする。 物語は抽象的なところから始まる。 例:3作目。完全無欠な執事になりたい男の物語。舞台はどこでもよい。

なぜ現実とは違った世界を描くのか:

現実世界と似て非なる世界。現実を際だたせた世界。 フィクションとは何なのか。 実生活にあるものは想像から生まれた。

なぜ小説なのか:

小節でしか成り立ちえない形を模索しようと思った。

プルースト失われた時を求めて』を読んだ。 記憶だけで描かれているところがある。 30年前の場面が2日前の出来事と直結して語られる。 不安定な記憶の流れを描く。それはほかの形では得られない。小説を読まなければ体験できない。

筋書きに固執して時系列に話を展開するよりも、語り手の内なる考えや関係性を追って書きだした。

私にとって記憶は、一枚の写真のようなものだ。 映画だと、過去の感触が消え失せてしまう。

記憶の信頼性:

信頼できないことが小説家にとってはかえって強みになる。 信頼できない語り手を置く。 他人に、自身にウソをつく語り手。 読者は、建前に隠された本音を見抜くスキルを使う。

いつまで暗い記憶を忘れるのか。いつ向かい合い思い出すのか。 個人的記憶、社会的記憶。 つらい記憶を忘れることはよいことなのか。 人種差別、過去の美化。

事実ではないことをつくり出す人間は、責任を持たなくてはならないと思う。 どこまで責任を持つべきなのか。

イギリスの執事の隠喩(メタファー)

感情発露への恐れ、多くの人びとの政治的関心(盲目的な従事)

小説はウソを伝えるものなのか:

小説は創られた物語 小説には真実が含まれる

つまらない人

 世のなかつまらない人が居るものだ。かくいうわたしが面白い人間だとは思っていない。けれども、あまりにもつまらない人が居るのだ。例えば、「ふとんがふっとんだ」とだれかが言って「つまらないね」と言う人は、いささか優しさに欠けるのかもしれないがまったく問題ない。けれども、「そんなわけないだろ」みたいなことを言う人はなんなのだ。しょせんダジャレだと言うのに、彼らはなんでも字面そのままに理解しようとするのだ。

 わたしたちの大半は「ふとんがふっとんだ」がおそらくもっとも有名でもっとも下らないダジャレであることを知っている。だからわたしたちは「つまらないね」などと冷ややかなことを言ったり、場合によっては大笑いをすることもあるかもしれない(見たことがないが)。いずれにせよ、会話している人たちはともにダジャレのレベルで語り合っている。ところが彼らはそのレベル合わせが出来ないものだから、わたしたちがダジャレのレベルに居ても、彼らは現実のレベルに居つづける。彼らにとってはそれが唯一無二のレベルであり、その下にさまざまなレイヤーがあることを知らない。いや、知ってはいるのかもしれないが、現実のレベルにしがみついている。彼らの切り返しはつねに、「下らないダジャレだ」ではなく「ふとんが吹っ飛ぶわけないだろ」なのである。

 この手の話は、興趣を理解できる自分(書き手)と理解しない相手(批判対象)という上から目線の話になってしまう恐れもある。「ハッ、あの議員のあの発言は、しかじかの名著の引用で、あの議員を道化になぞらえてバカにしたジョークなんだよ。そんなことも分からないなんて」などと言ったところで、特定の文脈を理解できる自分が、できない人びとを見下しているに過ぎない。そこには見下すいやらしさがある。けれど、これはそんなに高度な話ではなく、「ふとんがふっとんだ」レベルの誰でも理解できると思われるような文脈が通じない人が居るのだ、ということに対する率直な驚きに過ぎない。「屋根が吹っ飛んだ、やーねー」と言えば、彼らは「なんという話だ、不謹慎だ、撤回しろ」と怒り出す。まったく、下らないダジャレを発したその口が、開いたまま塞がらないような話である。

雑記:面白いと思って読んでいたブログがことごとく更新停止に陥ってゆく。人間が感じられる文章、よいブログだったのに。まったく悲しいことです。

父親嫌い

 つい最近まで父親が嫌いだと思っていたのだが、「見ていられない」と言ったほうが的を射ていることに気がついた。好き嫌いでいえば、親だから当然好きなのだ。好きだからこそ見ていられないという思いがする。クイズ番組を見れば解答を間違えるゲストを見て必ず「バカ」と言う。「そんなことも知らないのか」と言う。自分の分からない問題があれば、スマホで調べて「答えはこれだ」と威張り散らす。それでもゲストが間違えると「バカ」と言う(自分も分からなかったのに……)。母がバラエティ番組を見ようとすると「バカ番組」と言う。「お前はそういうのが好きだよな」と言う。「晩飯作ってやる、なにがいい」と聞いてくるが、こちらが「照り焼きチキンがいい」と言うと「それならポトフのほうがいい」などと言う(料理のジャンルがまるで違うのは、自分が作りたい料理があらかじめ決まっているからだ)。ハンカチーフの色を変えるマジックで、観客のリクエストを「あ~黄色はお休みなの(こんな口調だったか?)」などとごまかすマギー史郎さんのようだ。しかも本家と違ってただただ不愉快である。

 むかしの父はこんな人ではなかった。立派に務めを果たしていたからこそ、その知識にもつねづね尊敬の念を覚えたものだ。そして、すこし大げさに言えば、周りにも誇ることができたのだ。けれども今では、何もせず、過去の業績にしがみついてただ他者を否定するお山の大将になってしまった。きっと、失われつつある自尊心をそうやって他者を否定することで埋め合わせようとしているのだ。それは、何の努力もせずに自尊心を取り戻すもっとも簡単な方法だから。年老いて出来ないことが増えてゆく自分を、そうやって支えようとしているのだろう。ちょっとお高いレストランで「このソースはちょっと塩気が足りないね」などとほざけば、自分が料理の分かる、エライ奴なのだと思い込むことが出来る。高級レストランの上に立ったような気分になれる。そんな楽しみ方しかできなくなってしまった父の、淀みきった心の濁りを晴らしたい。

 もっとも、では自分は年老いたときにそのようにならずに居られるかと考えると、その自信もない。けれど、そのような淀んだ心で晩年を生きるのは、あまりにも悲しい。心が歪めば、人は遠ざかり、人が遠ざかれば、心は歪む。そうしてますます世のなかに対する偏見が強まり、やがては誰にも尊敬されずに一生を終えなければならない。考えるだけでも恐ろしいことだ。

 もはや父と心から本当に会話をすることは無いのかもしれない。きっと父は、最期のときまで自分の心をごまかしながら生き続ける。自分が情けない。申し訳がない。そんなことは思っていても口には出来ない。世に言う「男のさが」というやつかもしれない。それが出来たときこそ、美しい、裸の心に戻れると思うのだが。わたしも死ぬ心構えというものをしなければならないと思う。それで、自戒の意味も込めてこれを書いてみた。

転んだおじさん

 朝の満員電車。閉まりかけたドアに駆け込もうとして、ホーム上で転んだおじさんが居た。ふつうなら周りの人の目もひややかなものになるところだけど、あまりにも派手な転び方だったので、周りの人たちも「大丈夫だろうか」と温かな雰囲気でおじさんを見守っていた。おじさんは、生まれたての子馬のような足取りでなんとか立ち上がると、ふと虚空を見上げて「邪魔なんだよォ!」と叫びを挙げた。その叫びを無視するかのようにドアは閉まり、電車はおじさんを乗せて消えていった。