もの知らず日記

積み重なる駄文、天にブーメラン

道具第一主義について

 不思議に思うことがある。趣味で卓球をやっていると、初心者なのにプロや上級者向けの道具を使っている人が居る。何度か打った彼……仲間ではないが他人とも言えない彼も、そうだった。彼は初心者なのに、威力を出すためと言って、総額3万円以上もする上級者向けの道具を使っている。ラケットが二万円で、ラバーが一万五千円以上(定価で七千円〜八千円のものを両面に使用している)。ちなみに私の道具は、ラケットとラバーを合わせても一万五千円で収まる程度だ(初~中級者向けなのだが、それでも10年前と比べればずいぶん値段が上がってしまった)。

 もちろん、どのような道具を選ぶかはその人の自由だ。高いラケットやラバーを買えば、売り上げへの貢献にもなるのかもしれない。しかし私は、道具が卓球をするのではなくて、人間が卓球をするのだと考える。だから、まずは自分の技術をある程度まで確立することが大切であり、道具はそれを手助けするようなものであるべきだと考える。いきなりプロ級の道具を使うのは、素人がF1のマシンに乗るようなもので、高い性能を引き出すどころか、まともに走行することすら出来ないだろう。

 例えば卓球でオーバーミスを繰り返すのなら、私はまずは自分に原因を見出そうとする。自分のフォームやタイミングを確認する。けれど、彼のような人は、本当に自分に原因が無いと思っていて、道具を変えれば何とかなると思い込んでいる。彼は「自分がオーバーミスを繰り返すので、ラバーを変えようと思う」と言っていた。私からすると信じられない考え方だ。私に言わせれば「道具が悪いのではなくて、あなたの打ち方が悪いのでは?」という話だ。

 もちろん私も競技において道具という要素を無視するわけではない。とくに上級者であれば、道具のわずかな違いでもプレイに大きな影響を与えるだろう。しかし、当の彼に関しては彼自身の技量の問題であることは明らかだ。基本的なラリーのときも、攻撃的に打ってくる上にオーバーミスをするのであまり印象もよくない(卓球の作法みたいなものは、どこで学ぶのだろうか?)。問題の根本的な原因から目を背けている限り、自分が上達することは無いと思うのだが。

 競技を行うのは自分という人間なのに、何故そこまで道具中心に考えられるのか、本当に不思議なことだ。こういう話は卓球に限らず、道具を使う競技や、楽器の演奏などについても広く言えることだろうと思う。そういう人を何と呼ぶのか、私は分からずに居る。なので、さしあたり「道具第一主義」とでも言えば良いだろうか。彼らの特徴は、「実力が伴わないこと」と「自分の技量の無さに目をつぶり、道具が全てを解決すると思っていること」だ。私もそうなってはいけないと、自戒するばかりである。