もの知らず日記

積み重なる駄文、天にブーメラン

オンラインゲームで知らない人と協力する難しさ

 最近、ゲームで他人との協力関係を築く楽しさや難しさを感じています。言葉を介さないプレイのみによる信頼関係が成り立ったときの楽しさは大きいし、それが成り立たないとガッカリもします。そもそもあんたは弱小プレイヤー、そんなにマジメ腐って考えても意味ないよ……と思うのですが、一人でやるわけではない以上、協力関係というのは立ちふさがっている壁だとも思うのです。

 またゲームというと、「子どもにとって(テレビやコンピュータの)ゲームはよろしくない」という話をよく聞きます。短絡的なものでは「暴力的なゲームをやると暴力的になる」と断言していたり、そうでなくても「暴力的なゲームをやると子どもの攻撃性が増す」とか、「社会生活を営む上で大切な共感能力が育たない」などという話を聞くこともあります。こうした理由から、ゲームにおける他人との協力関係について思うところがあったので、ここで少し記録しておきます。

ゲームでも学んだ

 それについてどうこうと言うわけではありませんが、わたし自身はゲームから社会性を学んだところもあるなあと思っています(社会性と言っても厳密な意味ではなく、ここでは集団作業をする、という程度の意味でしかありませんが)。さらに言うと、ゲームの場合、オンライン上の見知らぬ人びとと協力することがほとんどなので、これは現実ではなかなか得られない体験ではないかと思うのです。

 例えば、敵を倒すゲームを想像してみます。そこには一人では倒しきれない量の敵が居ます。より良い成果を出そうとするなら、味方と協力するしかありません。さらに敵をより多く倒そうと思うなら、集団で効率的に動く必要があります。各自が自分勝手に動くと、敵を奪い合って共倒れ、どちらも本来出せたであろう力を出せずに終わることもあります。

問題1:集団のために自分がどう行動すべきか

 見知らぬ他人と協力するだけでも難しいのですが、さらに難しいことに、プレイヤー同士の作戦会議が行なわれることはほぼありません。現実であれば言葉を交わすこともできますが、ゲームではほぼ完全にプレイヤーの裁量にゆだねられます。集団のために自分がどう行動すべきかを、自分で考えないといけないのです。ですから、個としての戦力と同時に、集団としての連携も大きく勝敗に関わってきます。

 極端に言えば、たとえ強力なプレイヤーが居ても、その人が故意でないにしても他の仲間が狙っている標的を奪うような動きをしてしまうということは、突き詰めれば敵チームを一人で相手をしているような状況になってしまいます。たとえ自分より戦力として劣るとしても、”任せられる部分は”任せていったほうが全体としてより高い結果を出すことができる、というのは、ゲームだけでの話ではないと思います。

問題2:協力を阻害する要素。私怨など

 さらにもう一つ難しい問題があります。そういう目的意識を共有しないプレイヤーも居るということです。そもそも「自分のやりたいようにやる、他人など知らない」という楽しみ方を禁止するルールはありませんし、そうでない、普段は協力的なプレイをしている人でも「私怨」という問題があります。例えば、チームに分かれた対戦プレイの場合に明らかです。協力プレイの場合には倒す敵は共通の敵ですが、対戦プレイでは直接に互いを倒し合うので私怨が生じやすいのです。具体的に言えば、同じプレイヤーから2度3度と狙われて腹が立つ、そこでそのプレイヤーに報復に出ようと狙い続けた結果、まったく戦果を出せずチームは敗北した、というようなケースがあります。全体として達成すべき目標よりも自分の感情を優先してしまう人がいるというのは、いつになっても消えない慣習のようにも思えます。

ゲームはけっこう難しいのではないかと

 要するに、協力的な関係を築くことが求められるゲームで、より目標の達成度を高めたいと思うならば、集団のなかでの自分というものを考えざるを得ないと思うのです。そしてそれを考えてみると、じつはゲームに求められる社会性はなかなか複雑なものなのではないかと思います。そう考えると、協力関係を築く難しさというのも当然のことだと思えてくるのです。協力プレイとは言いますが、そもそも「協力しよう」という前提を他人に強いることはできませんし、共有できたとしても、それは腕前の上手下手や武器などの性能と同じように、ゲームの戦果に関わる一因でしかありません。ただし、腕前や武器の性能に比べると、プレイヤーの社会性はより直接的なかたちでチーム全体の勝敗に関わってきます。個としての能力が高くても、社会性が無ければ味方の役割を奪ってしまう。この点が大きな違いだと思うのです。

 何が言いたいかといえば、ゲームも現実も、他の人と協力するのはけっこう難しいなと、こんなことを感じています。

本が好き

 「本が好き」という書評コミュニティに登録してみました。読書関係のこういったサービスでは「ブクログ」にも登録していましたが、ブクログはどちらかというと短く分かりやすい感想が多く、読んだ感想をしっかり書いておきたかった自分にはちょっと場違いな感じもありました。そこで、そういう文章を書くのに適したサービスはないかと探して見つけたのが「本が好き」というコミュニティでした。

 それで早速書評ともいえない感想文を書いてみたのですが、わたしがはてなブログに移転したときと同じような驚きがありました。それはなんといっても、反応があるということです。書評を書くと、それを読んだ人が投票機能を使って「読んで楽しい」「素晴らしい洞察」などの感想を送ってくださることが珍しくありません。ブクログにも「いいね」という機能がありますが、「いいね」がついている書評や感想はかなり少ない印象を受けます。談話室(掲示板、フォーラムのようなもの)のほうの盛り上がりに比べると、少し不思議です。「本が好き」では、投票することでポイントが入る(たぶん)ので、動機付けの違いかなとも思うのですが。

 もっとも、だからといってブクログが悪いと言いたいわけではありません。むしろブクログは、自分の読んだ本や読みたい本を記録するのに重宝しています。記録という作業がとてもしやすいという点は、ブクログの利点だと思います。例えば、他人の感想を見て「この本を読みたい」と思えば、ワンクリックで「読みたい本」として登録しておくことができます。

 どちらにもそれぞれの長所短所があって上手く補完し合っているので、自分にとってはとても良い環境のように思えます。ただ、自分が「本が好き!」と名乗るのは、なんだか後ろめたい気もしますけどね。

www.honzuki.jp

今日の夢

2016年10月9日(日) うろ覚え

再会

 自宅にある自分の部屋と認識している(実際とはまったく違う)。曇り空の明かりが入り込む薄暗い部屋。部屋に入って右側の奥にベッドがあり、左側にクローゼット、右側手前(入り口からは死角になる)に本棚がある。友だちのKさんが居て、あれこれと昔話をする。わたしは窓の近くに行き、「外を見てごらん。前は畑ばかりだったけど、今では家が立ち並んでいる」と言う。それほどに月日は流れていたのだな、と思った。

3人

 あるマンションの下にいる。緩やかにまっすぐ下りてゆく大通りからわき道を上ったところにある。そのマンションの1階の片側は住居ではなく駐車スペースになっており、雑談にはもってこいの場所という感じがする。心地よい晴れ空のもと、昔の友人N君、そして友人のXさん(見た目にはまったく覚えがないが友人として認識している)。Xさんはママチャリタイプの自転車をN君の前に停め、わたしと並んでいる。「このあたりは県境でね、こいつはA県よりはB県(隣の県)のほうが近いんだ」などと、とりとめのない話をする。

矢沢氏

 ガレージにある黄色いマスタング(もちろん実際には持っていない)。女性を向こうの助手席側に案内して乗せ、自分も運転席(しっかり左ハンドルになっている)に乗ろうする。すると、突然矢沢氏が乗り込んできて、どうなっているのか自分の隣に座っている(もちろん実際にはそんなスペースはない)。そしてなぜか横から勝手にアクセルを踏んで発進させ、車は街に飛び出す。思わずわたしが「やめなさい」と抗議すると、「加速させているのは俺じゃあない、君だ」と言う。わたしは抗議することをあきらめ、ハンドルを切って車や人を避けつづける。

散歩

 家族と歩いている。東京ドーム近辺のような光景。しかしドーム周辺に飲食店が立ち並んでおり、実際とは異なる。回転寿司屋を見つけ、入ろうと言いだす。(回転寿司屋の戦いにつながっているだけの夢という感じ)

回転寿司屋の戦い

 何かから逃げている。デパートのレストラン街のような空間を走る。足音が後ろから迫る。じぐざぐになった通路を進むと、いつの間にかそこは回転寿司屋になっている。わたしは回転寿司屋のレーンのまわりを駆け抜け、入り口からもっとも遠いところにある下り階段(どこに通じている?)に足をかけて立ちどまる。

 息を整えようかと思ったその瞬間、飛んでくる寿司のシャリが目に入った。それはあまりに瞬時の出来事で、ハイスピードカメラを見ているような感覚。避ける間もなくわたしはシャリまみれになった。レーンをはさんで向こう側に、ほくそ笑む男がいる。板前の格好をし、見開いた目は不気味なほど丸い。心なしか舛添氏に似ているが、年齢はおそらく20代。わたしは激昂し、地面を蹴る。走ると言うよりは跳ぶという速さ、わずか数歩でレーンを周回して男に迫る。男も逃げるが、逃がさない。ビールなどの入った背の低い冷蔵庫に男を押しつけ、詰問する。

「なぜ店員になりすました!」

「……何のことですか」

「XXというのはあなたの名前ではないでしょう」

 白を切る男の名札を掴み、胸倉を引き上げる。周囲にいる店員もうなづいている。

健康食品のCM

 健康食品のCMはツッコミどころが多いと思う。「個人の感想です」とか「いまなら半額です」とか「30分間だけオペレーターを増員してお待ちしております」とか、「掃除機をお買い上げの方に、いまなら膝サポーターがついてきます」とか、気になるポイントがいくつもちりばめられていて面白い。そのなかでも気になることがある。

 それは、わたしが「脅し」と呼んでいる方法で、健康食品はその方法が用いられる代表的な例である。つまり、脅して救いを与えるのだ。だから、まずは脅さなければならない。やれ体のナントカという成分が加齢とともに激減するだとか、病気になるリスクが激増するだとか、あらゆる手段を用いて中高年を脅しにかかる。そうして奇怪で聞いたこともない成分がそれを救ってくれる。そしてその健康食品にはその成分が何百倍にも凝縮されている。健康な人がそれを使用しているのだから、私も健康を維持できるに違いない。そう思わせたら勝ったも同然である。

 思えば、こういうやり方は健康食品に限ったことではない。例えば、わたしは「雑菌まみれのお部屋」を何度も見ている。カビ取りのCMだったろうか。一見して綺麗な風呂場であっても、そこには目に見えない雑菌が繁殖しきっている。グチャグチャと嫌な音を立てながらうごめく雑菌。わたしたちの生活はなんと気持ち悪い雑菌にまみれていることか。視聴者の不快感が爆発しようかというその瞬間、正体不明の液体が雑菌の群れを吹き飛ばす。なんという救世主。それほどに素晴らしいものなら、登場人物もその液体をかぶって「清潔」になったらどうか、と冗談を言いたくなる。

 「脅し」と問題提起は紙一重だと思う。どちらも「こんなことでお困りではありませんか」と親しげに語りかけてくる点は同じでも、そこに何となく胡散臭さがある。それは、はたから見る分には面白くもあるのだけど、商売として見るとなんとも不誠実なことだとわたしは思う。

 もちろん、それらが客観的に悪いと言いたいわけではない。単に私の気に入らないという、その程度のささやかな感想である。

いきなり顔を表示して恐がらせる手法

 久しぶりに、いきなり顔が現れるというドッキリを見た。話題になっている宣伝のアレである。

 内容としては、物語で引き込んでおいて、最後の最後で効果音(たいてい大音量だ)とともに顔がワッと現れるというもの。てっとり早くドッキリさせる方法としてはすでにおなじみである。だから今回それを見たときも、わたしはどこかで懐かしさを覚えた(それも1割ほどであって、もう2割は怒り、残り7割は”また顔か”という思いであったが)。

 わたしなどは「ウォーリーを探さないで」というFlashの洗礼を受けたタチである。家族と一緒にウォーリーを探していたら、エクソシストの写真と同時に「ウワアアアアッ!!」という大音量が鳴り響く。当時はイスから転げ落ちる勢いで驚いたのだけど、それから似たようなものがどんどん出てきて、ネット上でもおなじみになってきた感じがある。

 しかしたちの悪いジョークならいざ知らず、物語で引きこむ心霊番組などでこれを使うのは面白くないと正直思っていた。というのも、さんざん物語で怖くなってきたところなのに、最後の最後にそんな安易な手段を行使されると、「とにかく怖がらせてやろう」という作為が丸見えになってしまって興ざめしてしまうからだ。物語の終盤まで姿かたちを現すことなく陰から主人公をおびやかしていた幽霊は、その見えない怖さを与え続けていてくれればいい。最後の最後になって突然主人公の眼前に姿を現す必要はまったくない。

 だから、最近見かける”怖がらせる番宣”でも、顔がなければなぁ、などと思ってしまう。物語で視聴者を引きこむなら物語に徹してほしい。けれどもショックを与えるというお手軽な方法で感情移入させる方法は、たいてい誰にでも通じるから便利な方法ではあると思う。だから、そういうものを見るときは「いったい何が起こるのだろうか」とドキドキしているのが半分、そして「どうせ顔が出てくるんだろう」というのが半分。そしてほんとうに顔がワッと出てくると「あぁ~~」と頭を抱えてしまう。こんな偏屈な見方をしている人はたぶん少ない。

 それが演出だよ、そんなに演出というものが嫌いなら、怪談でも聞けばいいではないか――という自分の声がどこからか聞こえてきた。