もの知らず日記

積み重なる駄文、天にブーメラン

パウゼヴァング『片手の郵便配達人』

 グードルン・パウゼヴァングの『片手の郵便配達人』を読んでみた。

 第二次世界大戦の終戦近い1944年8月から物語は始まる。かつて生粋の愛国少年だったヨハンは戦地で左手を失い、17歳になった今は故郷のヴォルフェンタン地方で郵便配達人として村々を巡り歩いていた。

 戦地から離れたこの地方の人びとにとって、貴重な情報源でもある郵便配達人は、戦地からの生存を知らせる希望をもたらす存在であり、戦死を伝える「黒の手紙」によって絶望をもたらす存在でもあった。しかしヨハンはその仕事を自分の意志で引き受ける。彼にとって郵便配達人は単に手紙を届けるだけではない。父の戦死を伝える「黒の手紙」を受け取って悲嘆にくれる母子にも、息子の戦死という現実を受けいれられずにいる老婆にも寄り添い続ける。村の人びとの心に寄り添う仕事なのだ。そんな信念を理解してか、村人らのヨハンに対する信頼も厚いことがうかがえる。

 郵便配達人は人びとにとって、戦争の状況や村同士の細かな情報を伝える情報源でもある。ヨハンの日常を通じて、戦争の影響がこの田舎にも徐々に波及してくる様子が描かれる。戦地にならずとも戦争の影響はやってくるのだ。疎開してくるさまざまな国の人間。彼らを自宅に受け入れる村人たち。増えてゆく「黒の手紙」。自殺を図る村人。

 もっとも、戦争の影響という点でいえば、その下地でもある人種主義、愛国主義的な価値観に対する人びとの影響というものも考えずにはいられない。田舎だからか、ナチスヒトラーに対して批判的な人も多くいるけれど、積極的にナチスを支援する人もいる。ヨハン自身、そうした価値観のもとで教育を受けたからこそ英雄として名を挙げたいと望んだのであり、それによって失った左手を「勇敢であった」と一言で片づける教師によって、その価値観は壊されたのであった。

 パウゼヴァングの物語に共通するのは、戦争への強い反感と平和への願い、そしてそうした願いが思い通りにならない現実のやるせなさではないかと思う。戦争への強い反感というのは明らかで、それはヒトラーを批判し続けるヨハンの母親などに象徴的に描かれているところでもある。そして愛国少年だったヨハンや、最後までヒトラーの勝利を疑わなかったマリエラは、かつての著者自身の投影なのかもしれない。

 そしてやるせなさ、こちらが物語の中心にあるように思えてならない。よかれと思ったことが裏目に出ることは現実にもよくあるけれども、それが思わぬかたちで結末に現れる。それは衝撃的であると同時にやりきれないものがあり、不愉快であると同時にどこかで納得もしてしまうような結末だ。誰が生きて誰が死ぬのか。誰が善人で誰が悪人なのか。善悪そう単純に割り切れるものではないし、戦争がもたらす現実は無慈悲だ。腹立たしいけれど、どうしようもない。そんな無力さを思い知らされる本だった。

悪しき感想

 率直に言って「ふざけるな!」と思った部分が2か所ある。一か所はフランツ・ロレンツェンの母。フランツ・ロレンツェンは美青年だったが、戦闘によって(よりにもよって)睾丸を負傷してしまう。フランツは戦争から帰って以来、そのことをとにかく秘密にしていた。が、この母親が隣の奥さんに泣きながらそのことを話し、そこから村中にその話が広まってしまった。誰も忍び笑いなどしなかったが、フランツは人びとの好奇の目線に絶えることができず、自殺してしまった。  が、この母親は街で出くわしたヨハンにこう突っかかる。「あんた、なんで生きてるの?」「あんたのどこがフランツより優れているわけ?」。あまつさえ「私のフランツを死なせて、他の子たちを生かしておくなんて! フランツとは比べものにならないくせに!」と言ってのける。

 もちろん心情は分かる。この母親は息子の死を事実として理解している。だからこそ自分が間接的に死に追いやったという現実に目を向けることができない。けれど、それが分かるからこそ腹立たしい。あなたが死に追いやったのだろう、どの口がそれを言うか。歯がゆいというのはこういうことを言うのだろう。

 もう一か所は、結末。僕がヨハンであれば、キーゼヴェッターさんを憎まずにはいられない。レビューや書評を見ても、このキーゼヴェッターさんについて何も書かれていないことが不思議で仕方がない。戦争は誰もが何らかのかたちで関与し影響されるという意味で、当事者になる。であれば、これもなにかの因果だろうか。なぜヨハンはこれほど穏やかなのだろう、と思うのは短絡的な激情だろうか。何度か読み返してみたい。

片手の郵便配達人

片手の郵便配達人