もの知らず日記

積み重なる駄文、天にブーメラン

僕の好きな本 (1)

 良書という言葉があるけれど、良い書とはなんだろうかと思った。そこで、自分にとって良い本とはなにかということについて、本を簡単に取り上げながら書いてみようと思う。それは「読書かくあるべし」というような話ではまったくない。むしろそういう模範的な読書論とは程遠い勝手気ままな読書生活を、非読書家として記録してみようと思ったのである。

僕にとっての「良い本」

 僕にとって良い本というのは、繰り返し読むに耐えうる本のことである。それは小説でも新書でも変わらない。それ以外の本は食べもののように美味しい部分を消化しておしまいだけど、良い本はいつでも楽しむことができて、考えを深めたり、大切なことを教えてくれたりする。読むたびに笑わせてくれる本もある。

 僕は、自分が良いと思った本しか手元に置かない。手元に置きたい本しか買わない。ほとんどの本については図書館という素晴らしいサービスに頼ればよいのであって、本というものは少ない方が自分の生活に合っていると考えている。というのも、僕は文筆家ではないから資料として書籍を手元に置く必要はないし、また読書家のように本への愛が強いわけでもないから、読まない本はお荷物だなと思ってしまう。そんなことをするのは本にも申し訳ない気がしてくる。だから自分が本を買う状況というのは、勉強などの目的で必要としているか、その本と一生付き合うような気分で買うかのどちらかしかない。

 では、自分にとって良い本が「繰り返し読むに耐えうる本」ならば、それはどんな本だろう。何度読んでも面白いと思える本である。では、「何度読んでも面白い」とはどういうことなのだろう。

想像する余地が与えられている本

 それは第一に、想像する余地が与えられているということだ。これはフィクションについてあてはまる。噛めば噛むほど味が出るどころか、噛むたびに味が違うことさえある。それと反対に、すべてが定まっている本は、分かりやすくはあるけれど、いつも同じ味しかしない。よほど良い味でなければ飽きてしまう。

 たとえば『狐になった奥様』は面白かった。何の前触れもなく狐になった夫人を、こっけいなまでに愛し続ける男。その別れまでを描いた物語だ。表面的には狐と人間の愛の物語なのだけど、これは他者と自己という例えで読み解くこともできるのではないだろうか。そう考えると、この物語は他者とのどうしようもないほどのへだたりと、それでもなお愛し続けることのこっけいなまでの一途さを描いているようにも思えてくる。こういう解釈はトンデモなのかもしれないけれど、こうやって読むたびに勝手に想像できるのが面白い。

狐になった奥様 (岩波文庫)

狐になった奥様 (岩波文庫)

いつまでも心がけたいことを教えてくれる

 第二に、いつまでも心がけたいことを教えてくれるということだ。噛むたびに味は変わらないけれど、だからこそ初心にかえったような気持ちになる。おふくろの味みたいな本だ。こういう理由で手元に置いている本は多い。

 たとえば最近読んだ『そこに僕らは居合わせた』は面白かった。ナチス時代のドイツを生きのびた人びとの物語が語られる本で、人間の共感と憎悪、弱さと強さ、希望と絶望、あらゆるものが混然一体となっている。そこには心優しい人間が迫害に賛同したり、教師がおとぎ話を使って子どもたちの心に一生消えないユダヤ人への恐怖感を植え付けるという話もある。ここに、人間を引き裂くような恐ろしさを感じる。しかし、そのなかで近隣のユダヤ人に支援をおこなったドイツ人や、友人をかくまったドイツ人もいたということに、かすかな希望をみいだすこともできる。

そこに僕らは居合わせた―― 語り伝える、ナチス・ドイツ下の記憶

そこに僕らは居合わせた―― 語り伝える、ナチス・ドイツ下の記憶

 また、日本で同じような混迷の時代に立ち向かっていった本が『君たちはどう生きるか』といえるかもしれない。これも面白かった。中学生のコペル君が、叔父さんとの対話を通じて成長してゆく物語である。叔父さんは日記を通じてコペル君の日常体験に新しい視点をひらいてゆく。たとえばコペル君は、家業の豆腐屋を手伝う貧しい友だちをみた。叔父さんはそれに対し、そうした人びともまた社会を支えていて、立派に働いているのだと説く。自分が見聞きしたものになにを思うか。そしてなにを考えるか(これは科学的な考え方の話でもある)。読むたびにコペル君の立場でどう生きるべきかと考え、また叔父さんの立場になって、子どもたちに「どう生きるか」と問いかけることができるのだろうかと考える。

君たちはどう生きるか (岩波文庫)

君たちはどう生きるか (岩波文庫)

その2へつづく)