もの知らず日記

積み重なる駄文、天にブーメラン

床屋難民

 しまった、と思った。

 帰るときに寄っていればよかった。あの床屋は8時までやっているなんて、思わなければよかった。

 履歴書に筆記用具。スーツにはアイロンをかけたし、訪問先への行き方もシミュレートしてある。役員の名前まで調べ尽くしたのに、伸びすぎたもみあげに気がついたのが午後7時30分。しかし大丈夫だ、近所の床屋は8時まで受け付けている。

 台所の方に向かって「いってきます!」と叫び、夜道を駆け抜ける。家路につく人々に脇目もふらず、最後の坂道を駆け上がる。時計を見る。よし、まだ8時前だ。店はやっている。

 そう思って安心しきっていた自分の目の前で、店員がカーテンを下ろした。店は閉まったのだ。

 にわかに怒りが込み上げてきた。これで上手く行っていれば完璧だったのに、床屋のせいですべてが無駄になった。ふざけやがって、なんだって閉店前の時間に店を閉めるんだ。オーダーストップくらい書いておけばいいじゃないか。

 そんな自分本位の怒りにまかせて、必ず今日中に髪の毛を切ってやると決意した。もっと早く出ればよいという決定的な落ち度を、意図的に見逃していた。そうして意地になったわたしは、床屋難民となることを決意した。

 駅前まで走り、2,3件と美容院を見る。もう片付けに入っている。さらに駅前通りを突き抜け、床屋を見る。ここも閉まっている。そういえば、駅の近くにもへんな置物のある床屋があった。あそこは夜もやっていた気がする。それを思いついた自分を褒めながら、駅前へ走る。が、店は閉まっている。さっきの自分を褒めた自分はなんだったのか。

 そうだ、駅前のスーパーの3階に床屋があった。午後10時閉店のあそこなら。エスカレーターを一段飛ばしでのぼったところに、営業中の旗が立っている。8時閉店で、いまは7時45分。間に合った! 脳裏で凱旋行進曲を演奏しながら自動ドアのボタンを押す。が、開かない。押す。開かない。押す。開かない。「??????」。

「時間じゃないんですけど、もう終わりなんで」

 客の髪を切っていた店主がのっそり出てきて言い捨てた。裏返った声で「あっすみません」と言うのが精いっぱいだった。焦りと怒りと恥ずかしさと怯えのなかで、私という人間はこれほどの殺意を抱けるのだと初めて知った。はじめてこんなに辱められたと感じた。こんなにやったのに、こんなにやったのに、「もう終わりなんで」で切り捨てられるのか。初めて、「二度と来るか、こんな店ッ」と心の底から叫んだ。

 しかしその熱意は一瞬で冷め、じわりじわりと、敗北感が背中を濡らしてゆく。呆然としてエスカレーターを降り、小雨のなかをからくり人形のように歩いた。

 帰路、最初の床屋から店員が出て来るのを見た。彼らに罪はない、と思った。

 近所のスーパーで牛乳と半額のざるそうめんを買い、小雨のなかを一歩ずつ踏みしめる。ぬれた路面に羽化し損ねた黄緑色のセミが横たわっていたのは、何年前の出来事だったろうか。ふと恐くなって、おのずから足取りが速まる。

 そうして自宅にたどり着いた私は、そうめんを食べた。吐きながら食べた。