もの知らず日記

積み重なる駄文、天にブーメラン

高いものがいいとは限らない

 結論から言えと言われる昨今なので結論から言うと、高いものがいいものだとは限らないということだ。とくに、サービスやコト消費のような無形のものではその特徴がはっきり現れる。当たり前の話なのだが、つくづくそう思う話があった。

 先日、ある高級なレストランの話を聞いた。経営が成り立たないほど、全く客が入っていないらしいという話である。

 客が入らない理由は誰にでも簡単に分かるもので、おもてなしの心が無いからだ。言い換えれば、ブランドにあぐらをかいた傲慢さだ。スタッフの誰もが「俺はXXXで働いてるんだぞ」と言いたいがためだけに働いていて、顧客のことなど見てもいない。

 詳しく話を聞くと、おもてなしの無さが分かる話がいくつか出てきた。始まりはそもそも予約の段階からだったという。まったく融通が利かないのだ。

 コース料理を食べ比べようと思って複数のコースを頼むと、「出来ない」と言う。全員同じコースにしろと言うのだ。また、メニューの変更や個別料理の追加も認めない。

 当日は、店内ガラガラで待合室もあるくせに、予約の定時になるまで店の前に客を突っ立たせておく。

 メニューの紙も貧相で、しかもテーブルの各座席に置いてあって、勝手に見ろと言わんばかりである。

 こんなことでは、食事の前段階から店への不信感を抱かざるを得ないし、食事自体も楽しめる訳が無い。招待した人間も恥をかかされたと内心穏やかでは居られなかったに違いない。かなり偉い人たちの昼食会だったのだ。

 こんなに不快な思いをしても、通ぶった大人に言わせれば「お前らが店のルールを弁えていないのが悪い」という話なのだろうが、安くないお金を払って、客の希望は一切受け付けず、だがうちのルールには従え、と言うばかりでは、何のためにお金を払っているのか分からなくなってしまう。そんな店をありがたがって利用するのは自由だけれども、私はそんな店を選ぼうとは思わない。

 私は、店と客の信頼関係が最も大切であると思う。店側にしても客の期待に最大限応えたいと思うものだし、客にしても店の仕事に敬意を払うべきなのだ。

 客による身勝手な注文が許されないのは言うまでもないが、それは店側が突っぱねれば良い話だ。そして、今回の件が突っぱねるほどに理不尽な要求かと言えば、そんなことは無いと私は思う。私自身、一人ずつ違うコースを頼むのも、個別に料理を頼むのも、行きつけの店では何度もやってきた。苦手な食材があれば料理を変えてくれたり、店の人が季節の料理などをおすすめしてくれて、コースの間に入れてもらうこともある。話し合いながら、コースを組み直してくれるのだ。

 もちろん店側としては面倒くさいには違いないが、そうして客として大切にもてなしてくれるからこそ私は通い続けている(しかも、さほど値の張らない、本当に良い店なのだ)。

 私はその店のスタッフを信頼している。同時に、私もそれなりに信頼してもらっていると思える程度には自信がある。日々の積み重ねを経て築き上げてきた関係性がある。それすらも「カネを出すからサービスをしているに過ぎない」と疑うのは、人を信じずカネを信じる思想だと言うしか無い。

 話が逸れたが、そういう心あるおもてなしに比べれば、私の知人がそのレストランで受けた仕打ちは屈辱とさえ言える。

 それだけのお金をポンと出す人はそんなことは一度で分かるし、記念日にと背伸びして訪れた人はなおさらガッカリする訳だから、客が居なくなるのも当然だと結論づけるしか無い。むしろ、そこまで腐りきってしまったレストランがどう建て直せるのかと思うと、私は悲観的に考えてしまう。ぬるま湯に浸かりきった人間には、もはや更生の余地は無い。だから、人をまるごと入れ替えるしか道は無い。もしこれが優れた経営者ならば、見事に立ち直らせるのだろう。

「期日前投票」

期日前投票

 土曜日に期日前投票に行ってきた。この日記で政治的な主張をするつもりはないのだが、個別の論点は別にして、選挙というもの自体には素朴に感じるところはあった。

 第一に、自分の選挙区の候補者についてしっかり比較するのは、意外と大変だということ。公報や演説だけでは「国を守る」というような耳当たりの良い(反対を招きにくい)大枠の話ばかりで、差異は浮かび上がらないから、差異を調べるにはそれ以上の能動性が必要だ。私としては、選挙公報の詳細版みたいなものがあれば、比較しやすくて助かるのだけど。ある?

 第二に、人物の実績を評価しようとする限り、既存のポストに居る人物が強いのは当然だということ。その裏返しとして、政治における実績の薄い人間が実績ある人間に勝つには、実績を上回る期待を集めるしかない。そうでなければ、やはり世の中の慣性が働くから、「なぜあの人が当選したのか」という結果になる。

 第三に、期日前の投票所が長蛇の列になっていて、投票したくても出来ない状況だったということ。投票所の前で「投票させてくれ!! 頼む!!」と嗚咽混じりに土下座したい気分だった。期日前でも当日でも、投票所の混雑ゆえに諦めた人(失われた投票)がどれだけ居る(ある)のか、気になったりもする。

 第四に、それでも長蛇の列に並んで投票しようとする市民がそこそこ大勢いたこと。しかし、それでも市民のごく一部でしかない。私は諦めて徒歩30分ほどかけて市役所に行った。それでも元の投票所で並ぶよりは大幅に時間を節約できた。

映画「関心領域 (The Zone of Interest)」

 10/3 日比谷シャンテで映画「関心領域 (The Zone of Interest)」を見た。アウシュヴィッツの隣で裕福な生活を営むルドルフ・ヘス一家の様子だけを描きながら、塀の向こうの収容所(さらにはナチ体制の狂気)を見事に想像させる映画になっている。

 想像させるというのは、直接的には描写していないということで、表面的にはどうでもいい日常ばかりが描かれる。そこに転勤でのすったもんだがあって、なんか何かを埋めてる女の子がサーモカメラで映されていて、急に現代に場面が飛んで、ときおり不気味な音声が差し挟まれて、なんだこりゃ、という感じだ。

 しかし、アウシュヴィッツのことを少しでも知っていれば、まずその背後に流れ続けるかすかな轟音と、徐々に強調されてゆく叫び声の正体にすぐ気がつくだろう。その意味で、ヘートヴィヒの母(?)と鑑賞者の反応は重なっている。外の世界から「この領域」にやってきて、初めはその裕福な生活のいい部分だけを見て、多少の違和感には目をつぶろうとする。けれども次第に「この領域」の本当の姿が見えてきて、我々に見て見ぬふりをすることを許さない。ここまで来てようやく、私達もまた、ただ真っ暗闇の中に流れる不気味に下降する音楽を聴いて「この領域」に足を踏み入れた一員なのだ、と気がついた。

 はじめは些細な違和感だ。かすかに聞こえる銃声。金歯をもてあそぶ少年。ユダヤ人から接収した衣服や化粧品を試す女たち。”荷”の効率的な焼却炉の商談。何かを埋める女の子。

 それでも、子どもたちとボート遊びをし、庭を手入れする日常は幸せそうに見える。が、その気持ち悪い違和感は次第に大きくなってゆく。川上から流れてくる「何か」。夜中に響く焼却炉の轟音。赤ん坊の泣き声。ヘートヴィヒの母親と、異常なまでの赤ん坊の泣き声、犬の吠え声や落ち着きの無さ、そして命を懸けてリンゴを埋める少女だけが、唯一この映画の良心として鑑賞者を繋ぎとめてくれる。

 音声によって徐々にクローズアップされてゆく異常さと、映像によって描かれる彼・彼女らの美しい生活の対比は、ぎしぎしと軋みながら不協音を増大させてゆく。驚異的なまでに見て見ぬふりをして関心領域の日常に執着する彼・彼女らの姿は、鑑賞者である私たちとも決して無縁ではない、というのが、突然現代に場面転換する意味であろうとは思う。

 強制収容所内部の写真が歯磨き粉のチューブに隠されていたことは有名で、私も「夜と霧」などはかじったので知っていた。本作ではそのエピソードも「ダイヤが隠されていた(彼女たちいわく”ユダヤ人は頭がいい”)」というやりとりになっていて、あまりにもさりげない。川遊びを急に中止して体を洗いまくるのも、それが隣の収容所で焼却したユダヤ人の遺灰が流れてきたからだと説明する描写は一切ない。少女が埋めているのがリンゴであることも、それが外部で強制労働に従事するユダヤ人への支援であることも、当然それ自体が命がけの行為であることも、説明はされない(彼女は実在したという)。弟を温室に閉じ込めるのも、明らかにガス室を仄めかしている。

 説明されないことが多すぎて、何も知らずに表面だけを見ると冒頭に書いたようなことになる。それでも、得体の知れない気持ち悪さに圧倒されると思う。それだけの迫力を持った映画だったと思う。

雑感 9/15-30

  • 西村賢太「雨滴は続く」を読了。人生の全てを小説に注ぎ込まなければ嘘である、との宣言通りの小説 (9/15)
  • コレド室町のきれいな街に犬の糞が落ちていた。もしかして飼い主の糞ではないか? (9/17)
  • ある番組のアナウンサーのグルメリポート、リアクションが早すぎて笑った。口に入れる前から、美味しーいって (9/18)
  • メルカリで本8冊出品。即5冊売れる。新しい流行本はほぼ定価で売れるから某中古書店の買い取りとは大違い (9/19)
  • 最近たまたま私服とスーツでそれぞれホテルへ行くことがあった。服装による対応の違いを明確に感じた (9/20)
  • 書店の壊滅的な行列。慣れ切った私は「下のフロアでもお会計受け付けております」って、言えばいいだけなのになあと思いつつ別フロアで並ばずにお会計。ちょっとした陳腐な優越感 (9/20)
  • うわあ、日本橋丸善もあのふざけたブックカバーなのか!(片側が袋になっておらず固定できない) 自分でやるから、ちゃんとしたカバーにしてくれ…… (9/20)
  • 学生時代以来、久しぶりの京王線新宿。ほとんど変わっておらず、五年ぶりでも迷うことがない (9/21)
  • 地獄の山手線。一人くらい、一日中乗ってる人が居るんじゃないか?(笑) (9/23)
  • 久しぶりに近所の公園を歩く。気が付けば、池の周りに新しい歩道が整備されていた。壊滅的にカフェなどゆっくりできる場所が無い街なのだが、たまには近所で過ごすのも悪くない (9/29)
  • 「〜感」って、なんでも「感」を付けるのはどこまで通用するのか? 金太郎飴感という表現への感想 (9/30)

映画「SONG OF EARTH」

 日比谷シャンテで映画「SONG OF EARTH」を観た。はじめて知ったのだが、日比谷シャンテは少し他館とは違う作品を上映してくれているらしい。このあいだの「ボレロ」もあまり上映館が無かったなと思う。

 もともとこの映画を選んだ理由は二つあって、一つは疲れ切っていたからだ。何も考えず、ただ自然を眺めるようなこの映画を見たかった。もっと面倒くさい言い方をすれば、無駄に余暇の無い(最近、生産的でない無駄な忙しさが続いていた)なかで疑似的に自然に還りたかった。

 もう一つは、この映画が「生き方」という私の永年のテーマに重なるものだったからだ。それも、人生訓をわざとらしく説くのではなくて、当たり前の生を通して人間の営みの尊さが浮かび上がってくるような話が好きなのだ(この点で私がいつも挙げる小説が、ゼーターラーの「ある一生」と、ウリツカヤの「ソーネチカ」と、米原万里の「オリガ・モリソヴナの反語法」である)。事前情報から、本作も私に刺さる感じなんじゃないかと思って観に行ってみた。

 結論から言えば大当たり。ノルウェー西部のオルデダーレンという渓谷の村に生きる老夫婦と、圧倒的な自然だけがこの映画の主役で、そのなかから生や老いとはどういうことなのかということを考えさせられる。答えは無いのだが、まさに「当たり前の生を通して人間の営みの尊さが浮かび上がってくるような話」だった。実はそれはすごいことで、人生訓を説く嫌みが無い物語というのは、たぶん人びとが思っている以上に難しいのだ。

 ストーリーらしいストーリーは無いから、目的意識を持って映画を見る人には退屈極まりない映画なのだろうが、私にはすごく良かった。氷の洞窟の中で氷が軋む音を聴くとき、自然がどれほど静かに、しかし圧倒的なスケールで動き続けているのかを知る。いや、そんなことを考えなくても、ドローンで撮影された山岳の美しさや、大きな木に灯るクリスマスのランプを見るだけでも、心癒される時間だった。

www.transformer.co.jp