もの知らず日記

積み重なる駄文、天にブーメラン

「おやじの味」

 料理というのも、人となりが出るのではないだろうか……と、父の作った肉野菜炒めを見て一人納得している。もやしは火が通りすぎてクタクタになり、豚肉も火が通りすぎて弾力を失い、もやしの水分でベチョベチョになっている。

 原因ははっきりしていて、もやしのことも豚肉のことも見ていないのだ。中華鍋を振るう自分の姿に満悦しているあいだに、もやしと豚肉の旨味は確実に失われてゆく。このことが父の独善的な部分――いかにも女性が「男ってこれだから」とため息交じりに言いそうな部分だ――をよく表している。相手の望むことをしようとするのではなくて、自分のしたいことを相手にすれば喜ぶであろうという彼流の「思いやり」と、食材のことを全く顧みないところが、自分本位という一点で重なる。

 けれど私はこのことを悪いことだと言いたいのではなくて、いかにも父らしいなと思って、少し微笑ましくさえ思う。水分の抜けきったもやしを噛みしめながら「うまいっ」と自画自賛したかと思えば、「うまい?」と自信なさげに聞いてくるところも、父らしい。

 では母親のほうは細やかな料理を作るのかというと、これもそうでもない。けれど煮物が抜群にうまい。市販のめんつゆやみりんをぶち込むだけなのだが、なぜかうまい。いや、幼いころから食べてきたのだから、うまいと思うのも当然か。

 よく「おふくろの味」なんて言い方をするけれど、それに比べると私の「おやじの味」は、思い出にこそなれども、うまいものではない。ただ、「お前はカレーよりシチューがいいんだろう」と、真夏のクソ暑いのにシチューを出してきたり、一か月の半分以上が野菜炒めだったり(中華鍋が好きなのだ)したこともあるような、自分勝手さと不器用さと思いやりが、私にとっては「これぞ”おやじの味”だなあ」と苦笑いしてしまうところではある。