もの知らず日記

積み重なる駄文、天にブーメラン

思い出について

 もうずいぶん前の話になってしまうが、予行練習のブルーインパルスを見た(今更この話をする!)。仕事の昼休みに抜け出して、近場で一番よさそうな、デパートの屋上に来た。このデパートの屋上は穴場で、あまりにもさりげなくあるものだからふだんは閑散としているのだが、腐っても屋上かな、同じように考えてきた人がちらほらと見受けられた。

 時間がギリギリだったので、屋上についた私はあわててスマホを起動し、ツイッターを見ながら今か今かとタイミングを伺っていた。もちろんブルーインパルスを撮影するつもりだった。ところが、ふと周りを見れば、ほとんどの人が私と同じようにスマホを構えているではないか。

 それは当たり前なのだけど、なんだかとても奇異に見えた。誰もが同じように行動し、同じような写真を撮る。それはなんだか、均質化された思い出のように感じられた。それならば、この眼で見たほうがいいのではないか、という思いが浮かんできた。

 カメラで撮影した、あるいはファインダー越しに見たという思い出と、自分の目で見たという思い出。そのどちらがあってもよいのだが、私は頭の中にだけ焼き付けるほうを選んだ。

 私はスマホをカバンにしまい込んで、ブルーインパルスの轟音を待ち続けた。ところが、代々木方面からやってきた機影は、ビルの陰から現れたかと思うと、あっという間にビルの陰に消えてしまった。小さな幾筋の雲だけが残っていた。

 それはあまりにも一瞬で、こんな「思い出論」をこねくり回した結果がこれかと笑ってしまう。それでも、これは私のなかでは歴史的な出来事として残り続けるのだろう。

 

 本当に大切なものは、写真や映像で残すものでもないような気がしている。便利な時代だから、やれ食事だとか、やれ友達とのナントカ会だと言ってとにかく写真を撮ることに夢中になりがちなのだけど、あとあとになるとそれほど感慨の沸き起こるわけでもなく、何十年と積み重なった膨大な量の写真も邪魔でしかなかったりもする。思い出は、失われてゆくから美しいのだな、と思う。

 その点、私は最近ツイッターやインスタグラムが急に面白く感じられるようになった。分厚いアルバムのようにわざとらしくなく、単にその時々を映し出し、それを自分や他人が楽しむ。アルバムのように過去の投稿を見ることもできるが、かといってアルバムのように堆積した時間を感じさせない(もちろん人によるだろうが)。はっきり言ってしまえば、大切なものも、どうでもいいものも、全てをごちゃ混ぜにしておくにはとても良いと感じる。

 一分一秒と絶えず更新されてゆく時間の感覚に私は最初戸惑ったのだが、慣れてみるとそれが心地よくもある。

 それで最近は当たり障りのない写真をツイッターなどに載せて、スマホからは消すようにしている。なんだか手元のアルバムを整理しきったのように思えて、清々しかった。