もの知らず日記

積み重なる駄文、天にブーメラン

門松秀樹『明治維新と幕臣』

 中公新書の『明治維新幕臣』を読みました。間違いもあるかもしれませんが、もの知らずの感想文(書評ではない)ということでご容赦ください。

幕府と明治政府の連続性

 「明治維新によって幕府は滅びた」と習った記憶が僕にはあるのですが、他方で「じゃあ幕府で働いていた人は、お偉いさんを除いてみんな無職になったのか?」などとものすごく失礼な疑問を持った覚えがあります。しかしこの本を読むとそうではなかったことが明らかになります。実際には、明治政府が全国的な統治を可能にするためには、幕藩体制下で幕藩が培ってきたノウハウが欠かせなかったのです。

 そして新政府の統治を底で支えていたのが、行政実務にあたってきた幕藩の末端の人たち、つまり「ノンキャリア」の旧幕臣でした。明治政府榎本武揚渋沢栄一といった旧幕側の人物、それも外国の学問に通じた人物を厚遇して迎え入れていますが、その他方で幕藩のもとで実務にあたってきた人びとも登用していったのです。

武士は二君に仕えていった

 しかし、このように旧幕側の人物を登用することは、旧幕側にも新政府側にも抵抗感があったのではないかという疑問があります。当のノンキャリアの人びとの言葉はありませんが、旧幕側について見ると、少数ですが義に反するとして仕官を拒んだ人もいました。内面的な葛藤は渋沢栄一の『雨夜譚(拙文感想)』などで語られていますし、福沢諭吉は「瘠我慢の説」で旧幕側の要職にあった勝海舟榎本武揚が新政府でも高官として活躍していることを批判しています。また明治政府側について見ると、大久保利通は「一掃セスンハアルヘカラス」と、本当は幕臣に依存しない体制を構築したいという思いを覗かせています。ただし実情としては、多くの幕臣は生活上やむなく仕官するか、あるいは明治政府でよい地位を得るために進んで仕官し(渋沢の述懐)、また明治政府幕臣に頼らざるを得ないということだったようです。

 具体例として箱館の例が紹介されています。箱館奉行所→裁判所→箱館府開拓使という経過のなかで、ほとんどの吏員が引き続き登用されてゆきました。開拓使のときには363名の旧幕臣が登用され、そのうち237名は箱館奉行所の関係者だったようです(例外として、箱館奉行だった杉浦誠は、奉行所明治政府を引き渡すと一度登用を断って徳川宗家の静岡藩へ移住しますが、開拓使設置とともに再び登用されるという経過をたどっています)。

まとめ――新たな時代へ

 ところがやがて箱館奉行所の関係者は激減し、さまざまな地方から旧幕臣の登用が進められてゆきます。まさに新旧交代ということであり、またそれを可能にするだけの基盤を明治政府が築きあげつつあったということではないでしょうか。

 福沢諭吉が「瘠我慢の説」で勝海舟榎本武揚を非難したとおり、幕府の要職にあった人物が維新後にも高官になりえたというのが明治時代であり、またその底では行政という実務的な部分で幕府の知識や人材が受け継がれ、それもまた新たな時代のなかで変化していった。御一新でありながら、それは大久保利通が言ったような「一掃」ではないというところに、明治維新の実像を見た気がしました。

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