もの知らず日記

積み重なる駄文、天にブーメラン

「ピアノ・ノート」

チャールズ・ローゼン「ピアノ・ノート」

 世界的なピアニストが、ピアノという楽器と演奏という行為について自論を語る。いわば、ピアニストの奥義を垣間見ることのできるエッセイだと思います。ピアノを弾くとはどういうことなのか。ピアニストはあまりに弾かれすぎた定番のレパートリーにどう向かい合うのか。歴史的な「正しさ」についてどのように考えるべきなのか。音楽教育やコンクールといった権威にも踏み込む姿勢はひたすら音楽に対する誠実さを感じさせ、まったく気取りのない文体は、クラシック音楽になじみのない人にこそおすすめしたくなる面白さがあります。以下話題に即してメモ(個別記述的なもの)を記します。(内容に関心のある方は、本書をじかに読んだ方が間違いなく面白いです。言うまでもありませんが)

身体と心、演奏慣習(伝統的奏法)

 音楽を演奏するという行為は、身体的な動作と内面的(精神的、知的)な活動からなります。それでは、この身体と心は演奏という行為にどのように影響しているのでしょうか。この問いに対して筆者は、身体と心を区別する考え方を否定します。ここでいう身体と心を区別する考え方とは、「音楽の本来の姿は頭のなかにある想念であり、演奏という動作はそれを体現するものでしかない」という考え方のことです。この考え方に対して筆者は、身体の役割を強調します。「ピアノでは身体的な努力と表現が密接に関係し、それが作曲と演奏の両方に影響する (p. 20)」。ピアノの作品には、「弾く」ことによって生じる身体性を要求している作品がある(ショパンマズルカ Op. 63-3、片手で弾くカノンなど)。

 ここで、身体(弾くという動作)と演奏慣習(伝統的奏法)の問題がでてきます。自分にとって耳慣れた演奏や「正しい」と教えられた解釈は、慣習として身体に刻み込まれ「思考や霊感の機械的な代用品」として機能します。つまり、心のように見せかけてまったく違うものだということです。そして驚くべきことに、この演奏慣習に基づく無批判な演奏が、コンサートにも見られると書いています。これは後述する音楽の歴史的な「正しさ」の話と密接に関わっています。

 思考や計画性をともなわない演奏は――これが現代のコンサートの偽らぬ現実だが――伝統的視点や演奏者自身の本能に批判的な演奏とくらべて一般に自発性に乏しく、習慣のとりこになりやすい。伝統に屈してしまう音楽家は、伝統を生かし続ける可能性を捨てたに等しい。 (p. 18)

 メモ:オーセンシティ(歴史的に正しい)運動。作曲家が聴いたであろう真正な音こそが絶対だと考えるあまり、伝統的な西洋音楽がもつ寛容さ(即興的な側面)を忘れ去ってしまった。

音を聴くこと、演奏時のジェスチャー

 筆者によれば、「ピアニストほど自分の出す音を知らない音楽家はいない」。なぜなら音にすべき情趣の多くが身体的努力や身振りとなって表れてしまうからです。レコーダーなどの機械に頼るのではなく、自らの感覚で音の響きを感じとることが大切だと述べています。それは、作品のなかに自己を失う、主観でありながら客観的な状態になるという極めて難しい要求です。

 このことは聴き手に対しても問題を投げかけます。音に情趣がなくてもジェスチャーによって視覚的に伝わることがあるからです。こうなると、音楽を聴くという行為にも疑いを向けなければなりません。ここで驚くべきことが書かれています。「人の耳に聴こえてくるのは、大半が期待している音である (p. 129)」。「有名なピアニストの凡庸な演奏も、無名なピアニストの素晴らしい演奏も、同等のよろこびを与える (p. 130)」。「プロの音楽家や玄人筋にとってはひどい演奏でも、聴衆には美しく聞こえ、喜びを与えることもあるのを忘れがちだ (p. 123)」。わたし自身が抱いていた、演奏を品評するような聴き手に対する疑念をこれぞと指摘している一文です。

「正しさ」の圧力

 解釈の「正しさ」とはなにか、そして教育やコンクールにおける正しさという圧力とはなにかという疑問は重要なテーマです。本書のなかでも「身体と心」「音楽学校とコンクール」などさまざまな章で触れられています。

 たとえば「音楽学校とコンクール」の章では、学位試験やコンクールで求められる「正しい」解釈(楽界が認める解釈)が、音楽に対する自発的な批判を阻害していると述べています(コンクールに対する批判はこの本の全体を通して一貫しており、別の章では「だからコンクールの演奏はあれほど行儀がよくて、眠くなるほど退屈なのだ (p. 114)」とまで書いています)。この意見は当然、コンクールを支持している人と相容れるはずがありません。このことがよく表れているエピソードも記録しておきます。筆者が審査員を務めたときのお話です。

 あるとき音楽学校校長をしている審査員が怒りだした。自分の考えというよりはだれかの解釈のコピーとしか思えないつまらない演奏をするピアニストに、わたしが5点をつけたからである。この審査員はこんな低い点はありえないと思ったらしい。そこで私は答えた。「もしこれが学位のための試験なら、わたしは78点をつける。だが職業を賭けた場では、こういう演奏はコンサートホールから追放されるべきだとわたしは考える。これは偽者コピー商品を売る行為に等しい」。 (pp. 103-104)

 演奏者として、筆者は「自発性の乏しい」演奏を厳しく非難します。そしてピアノ教師は「正しさ」を押し付けたい欲求をこらえて、生徒の解釈を引き出すように教える必要があるといいます。そうしなければ(技術とは別の)芸術的な成長を妨げてしまうのです。「コンサート」の章では、教育や楽界という権威に加えて商業からのプレッシャーが加わるだけです。

 そして、「正しさ」がどこから来るのかという問いにもっとも関連があるのが、最後の「演奏スタイルと音楽様式」の章だと思います。まず伝統的な、慣習的に用いられてきた奏法を紹介したうえで批判を加え、そうした奏法を安易に演奏に適用してしまうことで「聴き手に自分が深い感動と感受性をもって弾いていると思い込ませるための(あらゆるところにかまわずバターをぬりたくるような)安っぽい手段に堕してしまうことがある (p. 178)」と忠告しています。

まとめ(感想)

 書けば書くほどこの本のお堅い部分に触れてしまって、軽やかでありながらも誠実な筆致(そして翻訳)がもたらす面白さを損ねてしまう気がしてきたのでこのあたりでとどめておきます。音楽を弾くことと聴くことについて書かれているこの本は、シンプルな問いかけから始まりながらも音楽のとても深い部分を議論していると思います。ぼく自身、クラシック音楽に対するお堅いイメージが一気に変わった本です。