もの知らず日記

積み重なる駄文、天にブーメラン

「わが百味真髄」

06/09 : 檀一雄「わが百味真髄」

 長ずるに及んで、私の放浪癖は、私の、自分で喰べるものは自分でつくる流儀の生活をいっそう助長したし、また反対に、私の、自分で喰べるものは自分でつくる流儀の生活が、私の放浪癖を尚更に助長した。 (pp. 10-11)
 春夏秋冬に応じた料理とレシピを紹介しながら、その料理をめぐって旅先での思い出などを述懐しているエッセイ集です。

 旅と料理、そしてそれをつうじた人との出会い、これがこの本のテーマではないでしょうか。世界を旅し、日本を旅し、そのなかで知った料理を自己流に作り変えて家族や友人に振る舞う。そして、その失敗談さえも笑い飛ばすいさぎよさがあります。

 たとえば、家族にふるまったきのこ料理で家族もろとも腹痛に倒れても「あんなに爽快で、気持ちのいい、吐瀉と下痢をやったことはない」「まったく台風一過、全身が洗い流されるような感じであった (p. 118)」と断言してしまう。当然、料理を振る舞われる家族や友人からしてみれば、楽しみと同時に不安がつきまとったに違いありませんが、そうした周囲の反応についても、詮索せずに「どうだって、よろしい (p. 9)」と切り捨てる。いさぎよいというか、さっぱりしています。

 ところがご子息の太郎さんによるあとがきは、豪快で明るい人物像とは別の一面を指摘しています。旅によってつねに変化のなかに身を置くいっぽうで、料理を振る舞うことによって人と飲食を共にすることの裏には、寂しさのようなものがあったのではないか。料理を振る舞うことによって人が集まってきたのではなく、人を集めるために料理を振る舞い酒を飲むという祭りを開いたのではないか……周囲から豪快といわれた父親の異なる一面をほのめかしていて、読んでいて感じるものがあります。



もうひとつ、まえがきのお気に入りの部分を取り上げたいと思います。
料理はインスタントのウドンかラーメンかをその子供に啜り込ませ、母の会か何かに出かけていって、ペチャクチャペチャクチャ、その子のシツケや、知能指数のありようなど喋りまわっている女達は、亡国の子孫をつくっているだけのものである。 (p. 11)
これだけだとすこし重たい感じがしますが、続けてこのように書いています。
料理はインスタントよろしく、それより自分の時間の方がもったいないなどと言っている女性方よ。
 よろしい、この地上の、もっとも、愉快な、またもっともみのりのゆたかな、飲食(おんじき)のことは、ことごとく、男性が引き受けてしまうことにしよう。
 そうして、女性は、日ごとに娼婦化し、日ごとに労働者化してしまうがよろしいだろう。 (p. 12)
このように力強く宣言してしまうと、むしろさっぱりしてきます。こうした感覚も好きです。 最後に、とてもかんたんなレシピをひとつだけ。
 コップ1杯の米を大鍋に入れる。つづいてコップ15杯の水を入れる。さらにコップ1杯の極上のゴマ油を入れる。塩をほんの一つまみ。さてこの大鍋の中身を、トロトロトロトロ2時間ばかり煮るだけだ。洗う手間も何も要らない。でき上がったカユがまずかったら、心平さんが落第したせいだと思いなさい。 (p. 19)