もの知らず日記

積み重なる駄文、天にブーメラン

「検定絶対不合格教科書 古文」

05/12 : 田中貴子「検定絶対不合格教科書 古文」

 指導要領に端を発する既存の教科書の在り方に異議を唱えるべく書かれたのが、この検定「不合格」教科書です。
 作品そのものの面白さを歪める検定に疑義を呈し、(創られた)伝統や自国の文化として提示される読み方ではなく、自分の生活や文化を踏まえた自分なりの読み方が大切なのであり、またそれが古文の魅力なのだといいます。まず著者は、教科書にある「お説教臭さ」に疑問を投げかけます。
 なるべくいろいろな場や人々に、古典文学にはまだあなた方の知らないテクストがたくさんあって、それは決して教科書的な枠にはまった「お勉強」として読まなくてもよいのですよ、と声を大にして言ってきたのに、ほとんどの人が初めて古典文学に出会う場となる教科書がものすごく陳腐なのである。 (p. 285)
 その陳腐さは、教科書という公的テクストがもつ権力から生じるといいます。古文に関わらず、(本書の言い回しを借りると)「作者のいいたいことを発見せよ」という至上命令と、教育的配慮のなされた「お説教臭い答え」に対して強い抵抗感を覚える人は少なくないでしょう。まして古文の場合には、入試科目として文法や語彙という壁があります。「お説教臭い答え」、絶えず求められる文法や語彙の知識。「古文嫌い」を生み出す要因は、作品を読み込む以前の段階にあるといえるのではないでしょうか。

 著者は「お説教臭い答え」の原因として、大元の学習指導要領を時系列順にたどってゆきます(3部4章)。採録する作品について「教師の好みに片寄って、狭い学習にならないように (昭和31年)」とされていたものが、やがて「古典としての価値」と「親しみやすさ(昭和45年)」を重視するものへと変わってゆきます。そして国際化のすう勢のなかで、「国語を尊重」や「日本人としての自覚(平成元年)」といった民族的な考え方が現れます。(本書の言い回しを借りると)公的テクストは、時代の文化的・政治的な状況で変化する、というわけです。この点、ぼくは「古典としての価値」という言葉が気になりました。それはむしろ、作品自体の価値(絶対的な価値などというものがあるとすれば、ですが)というよりも、道徳を教えるために有名な作品が作り替えられているような印象を受けるのです。著者もまた「教育臭」という言葉でそれを表しています。

 こうした「お説教」の実例が取り上げられているのが第一部です。一例を挙げると、『宇治拾遺物語(児のそら寝)』は「僧と子どもとの素朴な話 (p. 26)」であり、『伊勢物語(芥川)』は純潔な「悲恋物語」になる。兼好法師は『徒然草』まじめな教訓を記したものであり、『平家物語』の木曾義仲は「愛」と「主従愛」の物語に”なる”。どれも普遍的なメッセージをもった道徳的な物語になっているのです。ところがこうした物語の背後には、性愛(同性愛や密通など)や恥の観念、ユーモアというような、「お説教臭い答え」とはまったく別の文脈が存在することも珍しくありません。

 第一部で別の文脈を提示された驚きは、第二部でさらに大きなものになります。一例を挙げると、仰臥状態にある失意や激情をユーモアたっぷりに描いた正岡子規の『仰臥漫録』、戦国時代末期に城内で戦う女性の話を口語体で記した『おあむ物語』。そしてぼくが一番驚いたのが、女性の初体験を生々しく描いた『とはずがたり(巻一)』と、さりげなく鋭く描いた『源氏物語(葵巻)』でした。『とはずがたり』では「薄き衣はいたく綻びてけるにや」とまで書いているのです。そこには人間の生き方や考え方、善悪両面をもち、葛藤する存在が描かれています。それは、単に歴史や文化(風俗)という点から関心を持つのとは違った読み方、ほんとうの意味で「作者のいいたいことを発見」するという文学の楽しみがあるのではないでしょうか。

 疑問点としては、作品と生徒がじかにぶつかるような読み方を教育の現場で適用するのはかなり難しいのではないか、などということがいくつかあるのですが、既存の文脈から解放してくれるという点でおもしろく読むことができました。