もの知らず日記

積み重なる駄文、天にブーメラン

「牝猫」「内向型人間の時代」

03月31日:コレット「牝猫」

 もう彼女は計画を立てている、もう陰謀の意図をはりめぐらせ、架け橋をつくっている、もうなにかをひろいあげ、つくろって、仕立てなおそうとしてるんだ……まったくたまったもんじゃない。母さんは彼女のこういうところを高く買っているのかな。たしかにそれはとても立派なことかもしれないさ。でもぼくはもう、そういう彼女を褒めてやることも、理解してやることもできそうにない。ぼくには堪えがたいことを、彼女はなんてのびのびとやってのけるんだろう……さっさと帰ってくれないかな、もう、さっさと帰ってくれ…… (本書, p. 179f)
◆主人公アランと愛猫サア、そして新妻カミーユ。男と猫と女という奇妙な三角関係の物語。主人公と愛猫のあいだにはすでに二人(二匹)の世界があって、その世界に入って行けない妻は、夫(主人公)の愛猫に対する憎しみを募らせてゆく。いっぽうで主人公は、妻を愛しつつも失望も覚える。◆主人公と妻という人間の違いがはっきりみてとれるラストが印象的でした。

◆その人間の違いは、凋落しつつある旧家に生まれ育った主人公がもつ貴族らしさ、エリートらしさによるものです。主人公にとっては、妻の立ち振る舞いや言動、そして貪欲さや利得に生きる彼女は「不純なもの」でした。「サアがライバルになるはずはないじゃないか」「きみにライバルがいるとしたら、不純なものたちのだれかだろうから…… (p. 52)」

◆反対に、愛猫にたいしては「猫科の動物の気品というものがあるし、欲得なんかを超越している、身の処し方を知っており、人間のエリートに似たところがある…… (p. 37)」といっています。◆そう考えると、主人公は、自分自身と愛猫になんらかの共通点、つまり、ある種の純粋さ、エリートとしての誇りを見出していたのでしょうね。妻は「不純」で、自分と猫は「純粋」、しかし妻からみれば、主人公は「人間」で猫はたかが「動物」、この入り組んだ対立は何とも面白いです。


04月01日:スーザン・ケイン「内向型人間の時代」

 私はどうかしている? エミリーがそう自問するのも、グレッグが彼女を責めるのも、驚くべきことではない。おそらく、性格タイプに関するもっともよくある――そして有害な――誤解は、内向型は反社会的で外向型は向社会的だという考えだろう。ここまで見てきたように、この公式はまったくの誤りだ。内向型と外向型は、違う形で社会的なのだ (本書, p. 286)。
<外向型人間と内向型人間> (p. 345)
外向型人間(行動の人):意気軒昂、明るい、愛想がいい、社交的、興奮しやすい、支配的、積極的、活動的、リスクをとる、鈍感、外部志向、陽気、大胆、スポットライトを浴びるのが好き

内向型人間(熟考の人):思慮深い、理性的、控え目、繊細、思いやりがある、真面目、瞑想的、神秘的、内省的、内部指向、丁重な、穏やか、謙虚、孤独を求める、内気、リスク回避的、神経過敏

……などといった特徴をもつ。

◆社会(とくにアメリカ社会)では、積極的なリーダー的人間、つまり外向型人間を理想とする「文化」が存在します。それにたいして著者は、消極的にみえる静かな人間の力を強調します。静かな人間(内向型人間)の多くは、思慮深さはあっても内気ではないし、また病気なのでもなく、人間関係を作れないわけでもありません。彼らは、外向型人間以上の”のびしろ”を持っていることさえあるのです。
◆内向型人間と外向型人間を分けるのは、自分の能力を最大限に発揮するために必要な(五感の)刺激の度合いの違いです。たとえば、内向型人間にとって、大勢の人間を前にしたプレゼンやにぎやかなパーティーなどは、自らの能力を発揮する環境としては刺激が強すぎるのです。

◆そしてその特性は、半分が先天的に決まるそうです。もしそうだとすれば、内向型人間にとって大切なこととは、その自分の特性を受け入れ、自分とうまく折り合いをつけてゆくことであって、自己(の特性)を否定して外向型人間になろうとすることではありません。◆この主張は、自分の内向性に悩んでいる人にとって、その内向性をさまざまな知見から容認してくれるものだといえるでしょう。

◆この本が日本でヒットしているのは、みずからを内向型人間だと思う人が多いということなのかもしれません。



あと「知覚の扉(オルダス・ハクスリー)」という本も手に取ったのですが、なんとまあ難しい。断念しました。