もの知らず日記

積み重なる駄文、天にブーメラン

3/11 The Real Chopin × 18世紀オーケストラ

 オペラシティで「The Real Chopin × 18世紀オーケストラ」を聴く(プログラムは最下部に記す)。出演は川口成彦さん、トマシュ・リッテルさん、ユリアンナ・アヴデーエワさん。

 メインはプレイエルによるショパン作品の演奏。それも、作品13, 14が演奏されるのは珍しい。ピリオド楽器(当時の時代の楽器)によるマイナー作品の演奏が聞けるというので(と言うと、ショパン好きは「大幻想曲もクラコヴィアクも、マイナーじゃあない!」と怒るだろうけれど)、やってくるのもコアなファンばかりに違いないとワクワクしていた。

 最初はモーツァルト交響曲第40番、有名なト短調交響曲。対向配置でヴァイオリンの掛け合いが効果的に響く。素人目には、指揮者無しでしかも1st と2nd Vn. の離れた対向配置というのは難しそうに思えるけれど、ピッタリ呼吸が合うのはさすがとしか言いようがない。コンマスの呼吸にしっかり応じる様子を楽しんだ。勢いのあるモーツァルトだった。

 次はフォルテピアノのために新たに作られた「Bridging Realms for fortepiano」。フォルテピアノから、ホール中に空気が広がるような音楽。

 そしてショパンの「大幻想曲」とクラコヴィアク、協奏曲第一番。プレイエルによるショパン作品の演奏は三者三様で、これほど違いが出るかと驚いた。

 私の勝手な感想を言うと、アヴデーエワさんの演奏を聴いて、モダンピアノとフォルテピアノがいかに異なる楽器であるかを痛感させられた。モダンピアノでは自然なタッチでも、フォルテピアノ、とりわけプレイエルでは全ての音にマルカートが付いているように感じられてしまう。フォルテピアノの弱さが枷になってしまって、「もっとこう表現したいのだろうけど、プレイエルの性能が追いついていない」という感じがした。

 今回初めてホールでプレイエルの演奏を聴いた。以前は銀座ヤマハの地下で展示されたプレイエルや、民音博物館で試奏を聴いただけだった。

 ホールで聴くプレイエルの音色は、録音とは全く違って、とにかく柔らかい。聴きやすく加工された録音だと、打鍵や装置の音まではっきりと聴こえてしまうのだけど、ホールではそれがなく、音色が自然に聞こえてくる。悪く言えば、迫力はまったく出ない。おまけに高音域はさらにか細くなるから、大きなホールには向かないなと改めて確信した。

 ショパン本人の演奏会に対しては、「聞こえなかった」という感想がしばしば寄せられた。エラールだろうが、プレイエルだろうが、ひたすらに目の前のフォルテピアノと向き合うショパンの演奏は、沈黙することを知らないあの時代の聴衆の耳には届かなかったのだろうな、と、私は勝手に想像している。ショパンはこう書いている。

 別にかまいません。不満が一つもないというようなことはありえないし、弾き方が強すぎるといわれるくらいなら、むしろ弱いといわれた方が、僕はいい (「ショパン全書簡I」 , p. 251)

 今回プレイエルによる演奏を聴いて、なるほどそうか、と一人得心した。

 あと残念なのは、作品2 も協奏曲第二番も翌日のプログラムに入っていて、聴けなかった。二日間行きたかった。

2/20 ラファウ・ブレハッチ ピアノ・リサイタル

 2/20 ミューザ川崎で「ラファウ・ブレハッチ ピアノ・リサイタル」を聴く。マズルカがメインで、最後に変ロ短調ソナタ2番。ショパンの作品の中で、マズルカほど演奏者によって違いの生じるジャンルは無いと思う。アクセントはもちろんのこと、テンポ自体も大きく揺らぐのが醍醐味で、それが好みの大きく分かれる理由でもある。

 私は品評するほどの見識はないけれど、マズルカは「端正だな」という印象を受けた。ルバートやアクセントもそうだけれど、奇抜さは無い。けれど、自由に歌う右手が印象的だった。装飾音だけではなくて、一瞬の溜め方や間が素晴らしかった。一言で言えば、真っ当というか。ショパンへの敬意や作品に対する誠実さがすごく伝わってきた。イ短調の序奏の孤独感とか、どうやったらあんなに表現出来るんだろうな。

 マズルカで一つ面白かったのは、マズルカの曲集がアタッカで奏されることによる効果。アタッカというか本当に食い気味だったのだけど、繋がりが分からなくなるくらい自然だった。

 多くの人が指摘するように、ソナタに入る前に拍手が入ったのは残念だった。さらに言えば、前半の終わり拍手が入らず、ブレハッチがおどけて慌てて立ち上がる素振りをしたのもヒヤッとした。広い意味で言えば、聴衆と奏者のちょっとした齟齬で、それがソナタ2番の冒頭部にも繋がってしまったのかな……と、余計な感想を抱いてしまう。

 けれど、それでもソナタはやはり素晴らしい作品で、ブレハッチの演奏はその魅力を存分に伝えてくれたと思う。一楽章はショパンのピアノにはないオクターブ低いbで、ダイナミックに締めくくる。二楽章のスケルツォや四楽章のフィナーレはとにかくテクニカルで、先の件もあって十全なコンディションでは無かったのかもしれないけれど、マズルカとは全く違う、ショパンの叫びにも近い声がしっかり感じられた。三楽章のカンタービレはやはりこのソナタの白眉。聴衆もこの部分での咳は死ぬ気で堪えて欲しかったなぁ。ちなみに、一楽章の繰り返しは従来通り5小節目からだった。

 アンコールは「英雄」、マズルカ op. 6-2, 「軍隊」。「英雄」のあの序奏からして、聴衆が盛り上がらないわけがない。当然の大喝采。私はop. 40 と言うとショパンが「全世界に向けて」と書いていたのを常に思い出す(全書簡)。ああ、やっぱりポロネーズはいいな! ショパンはいいな! と熱い気持ちで会場を後にした。

2/9 都民芸術フェスティバル  オーケストラ・シリーズNo.55  東京フィルハーモニー交響楽団

 2/9 池袋の芸術劇場で東フィル(指揮:出口台地さん、Vl:前田妃奈さん)によるチャイコフスキー作品。エフゲニー・オネーギンのポロネーズ、ヴァイオリン協奏曲、交響曲第5番。アンコールはソリストによるタイスの瞑想曲、弦楽セレナーデのワルツ。

 やはり、チャイコフスキーはすごい! 今回も「やっぱり良い曲だ〜〜」と感極まる場面がいくつもあったし、聴くたびにそう思う。

 エフゲニー・オネーギンのポロネーズから、勢いがすごい。一発目からそんなにフォルテで大丈夫なのかと思いつつも、やはり良い曲だなぁとノリノリになった。

 ヴァイオリン協奏曲も出だしから思った以上にフォルテに聴こえて、「そんなに飛ばしていいの?」と少し心配になったり、「そんなに速くて、ソロのパッセージはどうなるんだ!?」などと余計な心配(というか期待というか)をしたけれど、そんな懸念を吹き飛ばしてエネルギッシュに弾きこなした。若々しい勢いを感じた。強く聴こえたのは、席の関係かしら。アンコールはタイスの瞑想曲で、か細く繊細な歌い回しで聴衆を惹きつけた。

 交響曲第5番、絶望からの勝利を思わせる4楽章(勝手に思っているだけだが)。"con desiderio e passione" の箇所。強い愛情。何度聴いても手に力が入る。チャイコフスキーが、時代を超えて、私の腹の底に向かって直接「頑張れよ」と言ってくれているような気がしてくる。いや、言ってる訳無いのだけど。アンコールは弦楽セレナーデのワルツ。

 余談。このホールは傾斜が浅くて、初めて前の人の頭が気になる思いをした。大きなハゲ頭であった。指揮者が見えない……まあいいのですが。

 帰りに「新人だから安いんだよ」などと語っているオジイサンが居た。私は(バカ舌ならぬ)バカ耳で、たいていの演奏は無批判に聴いて楽しんでしまうので、バカ者なりに幸せである。良い曲は、よほど演奏が破綻しない限り、その素晴らしさを脳裏に思い描くことが出来る。演奏を聴きながら、頭の中に本当の音楽を鳴らすことが出来る。それは、演奏を聴いているようで聴いていないとも言えるので、失礼な聴き方なのかもしれないけれど。

 温まった心を守るように抱きしめながら、家路についた。

聴衆引退

 クラシックのコンサートの迷惑行為は、ほとんどはその人の無神経さに原因があることが多いけれど、高齢でマナーを守ることがもう生理的に難しいということもあるのかな、と思うこともある。そもそも聴衆に求められる「静かに聴く」ということは、難しいことなのだ。ふかふかの低い椅子に深く腰掛ければ足腰に負担がかかり、演奏中の数十分じっと座っていればお尻も膝も痛くなってくる。一切音を立ててはいけないというのも、考えてみればなかなか大変なことだ。

 ただ私は、残酷なようだけど、マナーを守ることが出来なくなったのなら、その時点で聴衆を引退すべきではないかと思う。それはプロの演奏家が自らの衰えを悟って引退を示す場合と同じように、聴衆としての一つのケジメであると、私は考える。

 こんなことを書くのは、冒頭を読んで頂ければ察して頂けると思うけれど、聴衆としてのマナーをもはや守れないような人が散見されるからだ。長時間じっと出来ず、杖が当たって演奏中なのにカタカタと音を鳴らしてしまう。咳を繰り返してしまう。座席の間違いに気がつかず、指摘されるまでずっと座っている。スマホの操作が分からず、演奏中に着信音を爆音で鳴らしてしまう。これらの多くは肉体や五感や知能などあらゆる面での衰えによることは否めず、それは歳を重ねれば必然的に訪れるのだから致し方ないこととも言える。

 従って、加齢に伴って生じるこうした問題は、無神経で思いやりのない人間による迷惑行為の場合とは明らかに違う。だから私は、自分の主張が排他的な要素を持つことを自覚している。これを書いていても心が痛い。いずれは自分にも突き刺さる問題なのだ。

 それは悪意のない誤りさえ認めないと言うことだから、偏屈と言われても仕方がない気もする。しかし、私と同じように思う人も少なからずいると思うのだ。

 私自身は、もしそうなったときには即座に引退すると決めている。私にとって音楽は文字通り「生きる糧」でもある(造詣が深いということではない)し、じっと聴くこと自体が難しいということは、ホールへ行くにも相当に苦労するはずだから、そうなってでも「自分はホールでこの演奏を聴きたい」と言う気持ちには心底共感を覚えるし、その覚悟に対しては畏敬の念さえ覚える。しかし、それでも、自分が鑑賞することが必然的に他の聴衆に迷惑を及ぼすような状態になったときには、聴衆を引退すべきなのではないか。

 未就学児の場合と同じように、一定の排除は正当化されるように思える。ただ未就学児が原則一律に入場を制限されているのとは違って、高齢者は自分で判断することになるだろう。

 プロの演奏家が自らの衰えを悟って引退を示す場合と同じように、聴衆もまた自らの衰えを悟ったときには、自分で幕を引くことが必要なのではないか、と、私は考えている。

 

F. Chopin, Barcarolle in F-sharp major, Op. 60.

 ショパン舟歌(作品60)を打ち込んだ。ピアノの表現を求め続けたショパンの、一つの到達点だと思う。これまた人気の高い作品で優れた演奏も多いのに、なぜわざわざ打ち込んだのかと聞かれれば、やっぱりこの曲が好きだからということに尽きる。

 この曲もまた、一見親しみやすくて間口は広いのだけど、いざ足を踏み入れるとどんどん奥深くに迷い込んでしまうような、底知れない魅力を持った作品。

 以下、制作メモの野暮ノート。例によってすべては私の思い込みで、根拠はない。

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