もの知らず日記

積み重なる駄文、天にブーメラン

トリイ・ヘイデン「うそをつく子」

 トリイ・ヘイデンの「うそをつく子」を読んだ。息をするように嘘をつき、さまざまな問題を引き起こす女の子の物語。家族に馴染めず、里親の家庭でも問題を引き起こして、すぐに施設へと帰される。誰もが彼女の虚言癖にうんざりして、半ば彼女を見捨ててしまうのだけど、著者のトリイは彼女と向き合い続ける。

 まともに内容も紹介せず感想だけ書いてしまうのだけど、読み終えて最初に感じたのは、一人の人間の心を解きほぐすには、これほどの手間が必要なのか、という疲労感。はっきり言えば、私自身もたぶんジェシーみたいな子が居たら、関わらないようにするだろうと思う。

 なんといっても、利得や楽しみのためではなくて、理由もなく嘘をつくのだから恐ろしい。そのうえで言い訳のためにも嘘をつくし、ときに攻撃的になって暴力を振るう。里親の家で放尿をして施設に帰されたりもしている。反応性愛着障害に対する知識を持った大人であっても、彼女の問題行動には全く歯が立たない。トリイが他の大人と違うのは、やはり根気強く接し続けたことだろうと思う。支援するためのプログラムはどこかで画一化せざるを得ない部分があるのだけど、その根本には人間対人間の数量化されえないところがあるということを教えてくれる本でもあると思う。

 ジェシーのケースは家庭的な問題があり、そこには社会的な背景もある。母親はうつ病でネグレクト傾向にあり、さほど年の差の変わらない姉が幼いジェシーの養育の多くを担っていた(この時点で何らかの介入が出来ていたら、というのは、私が結末を知っているから言えることだ)。子育てを担う大人たちが病み、子育てを助ける社会的な繋がりが薄れてゆけば、こういうことはこれからますます深刻になってくるのではないか、とも思う。けれど、そうした問題に光を与えてくれる本でもある。まだ、取り返しはつくのだと。

 著者は特別支援学級をはじめ、さまざまな難問を抱える子どもたちと接してきた人物だけれども、もちろんそれは常にうまくゆくわけではない。それでも、「シーラという子」などの前著から変わらず、一筋縄ではゆかない子どもたちに対して、愛情深くそして冷静に、根気よく接し続ける著者の姿勢に、私はただただ脱帽するばかりだった。人と向き合うって、大変だ。

 

卒業

 よく行くカフェも卒業シーズン。社会人になる子たちは今月でいなくなってしまうので、挨拶でもないけれど、顔を覗こうと思って、普段は行かない夕方に行ってみた。

 そうしたら、ずいぶん見ていなかった男の子が居た。聞くと、彼は一ヶ月ほど前から来なくなっていて、今日は顔を出しに来たのだという。最後に挨拶出来たのは運が良かった。記念にと写真も撮ってくれたのだが、もらうのを忘れてしまった。

 思えば2年ほどになる。それは客と店員という限りなく薄い関係で、あえてプライベートのことを聞くようなこともなかった。それでも、週一日以上は顔を合わせていたから、私は当然彼の顔を認識していたし、あちらでも私の注文を覚えてくれていた。

 彼は冷え込んでいる日だというのに額に汗をかいて、別れの挨拶にも涙ぐんでいた。私もまた感極まって、「あなたたちみたいに、周りの人たちに活力を与える人の存在が、これからの世の中には大切だと思う」などと、あまりにもおっさん臭すぎるカビの生えた説教をしてしまったと、いま猛烈に反省している。若者への説教はだめだと、かの高田純次も言っているではないか。恥ずかしい!

 けれど、本心からそう思っているのも事実だ。世の中には、心を擦り減らし、鈍麻しきった大人が大勢いる。余裕なく、自分が自分がという人も多い。そんな世の中に新しい風をもたらす人たちが今、社会に飛び出したのだと、私はなんとも嬉しくなった。

地元のパン屋もAI化?

 パン屋で画像認識によってレジ打ちを簡略化するシステムが導入されていて、ハイテクだなあと思って感嘆したのだけど、私が頼んだパンはことごとく誤認識され、店員のおばさんが新たなレジシステムに翻弄されながら全て打ち直していたのだった。

 それから何度か通っているのだけど、きちんと一発で認識したケースを見たことがない。システム上本来は一度に複数のパンを認識出来るので、きちんと機能すれば店員も大いに助かるはずだ。けれど現実は悲しい哉、一つも正しくないのだから無意味どころか邪魔でしかない。店員に「このレジは使いやすいか」と聞いても苦笑いしている。はじめは戸惑っていた店員のおばさんも徐々にこの誤認識システムに適応して、手入力モードに切り替える時間が短縮されてゆくのが何だか面白かった。

 この田舎にAI化の波が及ぶには、もう少し時間がかかるようだ。

「いい度胸をしてるね」

 選挙でやたらと覚えていることがあるのだが、それは中学生くらいのころに街頭演説の真ん前を横切ったときの記憶だ。夏日だったような気がする。私は地元の駅に急いでいたのだが、なんだか多くの人が集まっているなあ、とは思っていた。急いでいたから選挙の演説だと気づく余裕さえなかったが、人が多いなとは思っていた。今になって考えれば、応援で有名な国会議員でも来ていたのではないかと思う。

 一番記憶に残っているのは、そのあとのことだ。横切った瞬間に、その市長候補らしき人物の横に居た背広姿の男が、冗談交じりに苦笑しながら「きみ、いい度胸してるね」と言った。私は理解せず、「はあ」と言った。振り返ってはじめて、そこで話しているのが偉い人で、選挙の演説の真っ最中なのだと分かった。

 実際、度胸も何もない。単に、知らなかった、気づかなかった、というだけのことである。あれ以来、他人から「いい度胸をしてるね」と言われたことはない。

「ママがもうこの世界にいなくても」

 「ママがもうこの世界にいなくても」を読んだ。若くして大腸がんになった女性の日記……と説明するのはたやすいのだけど、やっぱりこういう本は「打ちのめされるようなすごい本」だ。

 私は遠藤のどかさんの生き様を胸に刻んだ。幼いころ、周りの人がみんな「のん」と呼ぶものだから、自分の名前が「のん」であると思っていた、というのが、なんだか微笑ましくて、ふふふっ、と笑ってしまった。

 私は最近、人の生の尊さに対して、やたらとセンシティブになっている。それは自分や身内のこともあるし、社会情勢のこともある。「空想にハマっている暇はない」と言ってフィクションを読まなかった私が、トルストイの「イワン・イリッチの死」にハマり、ゼーターラーの「ある一生」やウリツカヤの「ソーネチカ」、米原万里さんの「オリガ・モリソヴナの反語法」などを夢中になって読んだのはつい最近のことだ。

 時代や内容はバラバラでも、そこから私は一つのことを実感する。それは、自分の人生にとって何が大切なのかを本当に見つめることが出来たなら、それがどんな状況であれ、自分の人生を生き抜くことは出来るのだ……ということだ。ただ、この本はフィクションではない。こんな下らない思考の対象にしてはいけない。

 読後の激情を共有したくて他の方のレビューに目を通してみたのだけど、善意的なものではあるのだけど内容に対する品評が含まれているのが、正直に言って不愉快だった。確かに私だって、彼女のこの決断に自分はこう思っただとか、ここが感動したというような感想はあった。けれど、それを言葉にしようとするたびに、自分の言葉の安っぽさに愕然としていたのだ。

 常々思うのだが、人の死に対して、立派に生きただとか、最後まで立派に闘っただとか、――そういう感想だって善意によるものには違いないのだけど――日々を当たり前に生きている人間が、安全な向こう岸からそんな評価を下すのは、とても思い上がったことではないだろうか。

 かといって、反対に「どんな言葉でも語りえない」などと言っていたずらに神秘化するのも、うわべだけの安っぽい手法(内容を全く知らなくても「語りえない」と言って片づけることは出来てしまう)と重なって、なんだか嫌だ。

 となると、私はどうしたらいいのだろう? 21歳でステージ4のがんを宣告され、22歳で結婚式を挙げ、抗がん剤治療を中断して出産を決意して23歳で女の子を出産された――と書くことは出来るけれど、そこにある思いは読んでもらうしかない。なにより、娘さんへの記録にもなるからとインタビューを受ける決意をされたことは、読む際に忘れてはいけないことだろうとは思う。

 それ以外は、私がいちいち内容を取り上げてああだこうだと評するよりも、私自身が、胸に刻むしかないと思った。生きよう。それしかない。

 それでも、近い年代の人間として、こんなに力強いエールを、こんなに多くの人びとに与えるなんて、本当にすごい人だな、と心の底から思う。私の座右の書の一つになりました。