お題「#この1年の変化 」
私にとって「この一年」はどうだったろうか。思うところがありすぎて、色々なことが頭のなかをごちゃごちゃと渦巻いてまとめきれないから、一つだけ、一番強く感じたことを書いてみよう。
コロナ禍で生活が変わったことは言うまでもない。私がはじめてコロナ禍で衝撃を受けたのは、東京駅から「はとバス」の観光客が消えた時だったと思う*1。それまで2階建てのバスいっぱいに居たはずの外国人観光客が消え、さらに緊急事態宣言によって国内客が消え、乗客はほとんどゼロになった。そんな日が続いて、最後にはバスも出なくなった。緊急事態宣言が解除されてからまたバスが出て、多少は賑わう日も出てきたが、今また緊急事態宣言下で運航を中止している*2。私には、その光景が観光産業へのダメージの大きさを象徴しているように思えた。
私自身も、仕事が休業状態になり、経済的に苦しい時期もあった。けれどそれ以上に私にとって苦しかったのは、他人のいろいろなところが見えてしまったことだ。コロナ禍は身近な人びとの知らなかった部分に光を当て、その人がどういう人間であるかをはっきりと私に見せつけた。例えば在日中国人を病原菌扱いする人間が職場にいた。そうした発言をした彼ら(彼女ら)は、私にとっては「どこかにいる差別的な人間」ではない。それまで私が関わってきた、善意ある普通の人間だ。そんな人間が、それまで共に働いて、少なからずその人柄を知っている在日中国人に対して(冗談交じりにせよ)そうした言葉を浴びせることが、少なからずショックだった。それは感情的にも理解できないし、論理的にも成り立たない話だった。私は、その浅ましさと愚かさと傲慢さに対する軽蔑を隠さない。普段はしないが、これははっきりと否定する。彼らは間違っていると。こういうことを身近な人間にしなければならないことは今まで無かったし、ショックなことだった。
もちろん彼ら(あるいは彼女ら)は悪人ではない。ただ問題をなにか一つの原因(それさえ取り除けば解決する)に帰することで安心したかっただけなのかもしれない。だが、それは彼らが非常時にどのように行動するかを明らかにしてしまった。またその恐ろしさに対する自覚の無さも。
そして、このことの裏返しでもあるのだけど、コロナ禍のなかで私が強く感じたのは、自分にとって本当に大切なものはなにか、ということが問われている――ということだった。自分にとって大切な情報はなにか。自分にとって大切なものはなにか。自分にとって大切な人はだれか。
とにかくそれまでは雑念が多すぎた。他人の行動を責めたくなったり、ニュースを見て落ち込んだりもした。けれど、それが自分にとって必要なものかどうか、役立つかどうか、と考えてみると、実は苛立ちの多くは自分にとっては抱える必要のない雑念であることに気がついた。自分にとって大切なものは、普段は気づきにくいのだけど、実はとてもシンプルなものだ。そのことに気がついてからは、あまり一喜一憂することもなくなった(新型コロナウイルスと私の生活 - もの知らず日記)。
結果として、人間関係も、身の回りのものも、心のなかも、いまは随分きれいに片付いたと思う。これからもコロナの影響は多少なりとも続いてゆくに違いないけれど、あの荒立った心を乗り越えた今、私はそうそう狼狽することは無いだろうという自信も、持っている。心の表面が風にさざめいても、その底が揺れ動くことはない。格好をつけて言えば、泰然自若とした「凪」の境地である。だから今の私は、人間として……少なくとも一歩くらいは成長しただろう、と思いたい。