もの知らず日記

積み重なる駄文、天にブーメラン

思い出せないマンガ

 高校生のころの思い出といえば、たいていの人はそれなりのものがあるに違いない。例えば、生涯の友となった親友との出会いであるとか、初めてのアルバイトであるとか、あるいはちょっと危ない武勇伝であるとか、そういうことだ。

 一方で、わたしが高校生時代を振り返ったときに真っ先に思い浮かぶのは、自分の部屋のベッドの上で、猫のように丸まってマンガを読んでいたあの日々。毎週のように読んでいたビッグコミックスピリッツヤングジャンプだ。

 熱心に読んでいたというよりは、何気ないときになんとなく読んでいたのだけど、いま考えればその時間が生活のなかでかなりの割合を占めていた。はたから見れば無為としか言いようがない。一応自己弁護(誰に?)をしておくと、もちろん好きな作品もあった。高橋ツトムさんの「士道」などがすぐに思い浮かぶ。激動の幕末を、主人公の少年兄弟は貧窮から必死に生き抜くなかで志を持った武士となってゆく。それでノートの落書きが武士だらけになったのも懐かしい(もちろん画力は壊滅的であった)。

 こんな思い出話を書いたのは、ふと昔読んだマンガのことが思い浮かんだからなのだ。ひとつは「湾岸リベンジャー」というマンガで、もう一つは題名も思い出せない読み切りマンガ。どちらもストーリーすらまともに覚えていないのだけど、なぜか印象に残っている。

 「湾岸リベンジャー」は、スピード狂に妻を殺された主人公の復讐がメインの物語だけれど、マーチ(?)を大改造して時速300Km出るようにするというのが印象的だった。ボディはFRP(強化プラスチック)であるとか、ツインエンジンで劇的に出力を上げているとか、超高速時の風圧に耐えるよう戦闘機用のガラスを使用しているとか。高校生にも関わらず中二病だったわたしは「カッケー!」となったものだ。けれどわたしはなぜか敵(妻を殺したスピード狂)のスープラをノートに書いていた(画力は以下略)。やっぱりスープラが格好良かった。

 もう一つの読み切りのマンガは、数ページのごく短いもので、何かの企画で色々な漫画家が参加していたように思う。わたしが覚えているのはおそらくさくらももこさんが書いていた作品で、わたしが感動したのは別の方の作品だったと思う。このあたり記憶が定かでない。

 内容はシンプルで、「つらいことがあっても、時間が経てば過去になる」というような話だったのだけど、当時のわたしはそれを読んで感動した。ある意味で安直とも言えるそのメッセージに感動したのは、それを描いた漫画家自身が、漫画家として自立するまでに大変な思いをしてきたことが容易に想像できたからだった。それで、「あぁ、そうなんだなあ」と心に沁みた。

 心に沁みたのだが、タイトルも作者も忘れてしまった。さくらももこさんだった気がするのだけどなぁ。スピリッツだった気がするがヤングジャンプだったかもしれない。いや、スピリッツか。神のちからっ子新聞なんかも連載されていたぐらいだから。

 もうその頃から9年が経つ。9年前の、何度か読んだだけのマンガ。そりゃ忘れるわけだ。タイトルも作者も忘れてしまったが、話はわたしの血肉になっている。

三尺三寸箸

 ふと、三尺三寸箸の話が思い浮かんだ。「柄の長いスプーン」の話としても知られている。それはこのような話である。

 天国と地獄というものは、どちらも似ている。どちらにもごちそうがあって、それを取り囲む人びとがいる。そして、どちらも三尺三寸、1メートルを超える長い箸をもって、ごちそう(あるいはスープ)を食べようとしている。おそらく、ごちそうは地獄の釜のように、とてつもなく深い鍋の底にあるのだろう。ごちそうにありつくためには、この箸で食べるしかない。

 ところが箸が長すぎるからそのままでは自分で食べることができない。ここで天国と地獄の違いがでる。

 地獄では、だれもが自分の分を自分でとろうと躍起になり、争い合う。争いが続くほど、飢えの苦しみが増し、互いの憎しみも募ってゆく。しかし天国の人びとは、互いに食べさせあうことでこれを解決し、争いも飢えもなくおだやかに過ごしたという。

 細かい点は違うと思うのだけど、だいたいこのようなお話である。同じ状況でも、そこに居る人間の動き、あるいは心というものが、その状況を天国にも地獄にもするということを示す話だと思う。

 いまこの話を思い出したというのは、ある人が対談のなかでこの話について言及していたからだ。その方は「伸縮できる箸」を作れたらどうだろうか、と考えを示している。もちろんこの話の趣旨を理解したうえであえて「技術屋としての視点」に立っているのだけど、わたしにはこの考え方が面白かった。現実のことを考えてみよう。

 もちろん技術的に解決されれば便利にはなる。だが、技術的に解決されてゆく裏で「こういう配慮がされている、あとは自力で出来るよね」というような考え方をするような人が増えているような気がしている。よく言われる「ハードとソフト」の問題だ。  例えば、バリアフリーなどと言って、どの駅にもエレベーターの設置が進められたりする。これはハード面での解決策としよう。もちろんエレベーターが出来れば歩行が難しく車いすを利用している人などが自力で地上と地下を移動できるようになる。

 こうした整備が進む一方で、「エレベーターがあるんだから、自分で移動出来るよね」と考える人が増えているのではないか、と言うことだ。これはわたしの勝手な感覚であり、ささやかな問題意識に過ぎないのだけど。

 電車の移動などを見てもそうだ。ベビーカーや車いす、杖をついた人、妊婦、などなど、こうした人が乗ろうとしても何ら譲ろうとしない。明らかに顔色が悪い人がいても知らん顔をしてスマホとにらめっこしている。車いすでさえ、駅員が介助するのを気まずそうに見つめ、嫌々スペースを作っている光景をよく見る。

 バリアフリーということを考えたときに、ハードに対するところのソフトというのは人間の心に他ならない。いわば心のバリアフリーはどうだろうかと考えてしまう。端的に言えば、どれだけ設備が充実しようと、社会の主役は人間にほかならない。人間が変わらなければ――言い換えれば、心のバリアフリーに向けた取り組みが進み、充実しなければ、障害者の生きづらさは変わらないのだろう。これはわたしの勝手な感覚でしかないけれど。

 三尺三寸箸の話で言えば、人間による解決方法は「互いに食べさせあうこと」である。確かに、箸が長すぎて食べることができない、それでいて短いと食べものを取ることができないという問題があるのならば、どちらにも対応した伸縮可能な箸をつくれば、どちらの問題も解消する、というのはとても明快な考え方だ。

 ただ、この伸縮可能な箸は天国すら地獄にしてしまう可能性もある。伸縮可能な箸によって誰もが自分で食べられるようになってしまえば、互いに食べさせる必要がなくなってしまうからだ。ともに不自由であればこそ、その不自由さを分かち合い、互いに食べさせあう優しさが生まれる。だれもが自分で自分の食べたい分だけを取れるようになれば、優しさの芽を摘んでしまうかもしれない。そうなればそこにまた奪い合いが生じる。

 「人間のための技術」が地獄をもたらすケースもあるという懸念を、この三尺三寸箸から派生した空想は考えさせてくれる。だから技術での解決をやめるべきだという話ではなく、結局は人間の意識が変わらなければ、誰もが生きやすい時代と言うのは来ないのだろう、という話だ。そんなことをぼんやり考えていた。

 技術が悪いという話ではありません。念のため。

「温泉むすめ」を知った

 温泉は全国にたくさんあるけれど全然わからない。草津や鬼怒川、熱海に箱根なんていうのは都心からも比較的近くてすぐに思いつくのだけど、じゃあ例えば青森はどうかなんていうと、テレビでみた浅虫温泉くらいしか知らない。……青森、ですよね?

 で、そんなことを思っていたところ、新聞で「温泉むすめ」というのを見た。各地の温泉をキャラクター化した女の子たちがいて町おこしをしている、といったら元も子もない(ファンに怒られる)。公式サイトによると「温泉むすめ」は温泉の下級の神様で、全国各地にいる彼女たちは、自分の温泉地の魅力を伝え盛り上げる任を負うこととなったのだという。わたしたち(?)は、その彼女たちの成長と活動を見守るというわけだ。

 アニメや漫画、音楽を使って地域活性につなげるということで、これはクロスメディアと言うらしい。アニメツーリズム、聖地巡礼の一つのかたちと言えるだろうか。聖地巡礼というと、わたしもちょっとだけ聖地巡礼というのをした。たぶんした。「シティーハンター」の舞台となった新宿であるとか、「耳をすませば」の聖蹟桜ヶ丘などを回ったくらいだけど……。

 話が反れた。アニメの聖地巡礼との違いを考えると面白い。アニメの場合は、物語の舞台になったからこそその場所を訪れると思うのだが、温泉の場合は温泉に行くこと自体も目的になる。もちろん聖地巡礼も目的になる。どちらが主従であろうとも楽しめるので門戸は広いと言えるかもしれない。

 アニメによって人が動くということは聖地巡礼の流行を見れば分かることかもしれないけれど、最初から地域経済の活性化を目的にしているというのがすごく面白いと思った。全国的に各温泉地と連携しながらこれだけのものを展開する。しかもそこまで整えたところで「実際に人が動くのか?」とか「これだけ多くのキャラクターがいて、人気にかなりばらつきが出てしまうのでは?(都心から近い場所と遠い場所などで)」などというところも勘ぐってしまうけれど、ツイッターを見ればなんのその、なかなか広い範囲で人が動いているではないか。

 これはもう、キャラクターへの愛の為せる業なのだろうか。やはりファンの力というのは力強い。このようなどうでもいいことを考えながら、自分はどの温泉を推そうかと思ってウェブサイトとにらめっこしていた。

打ち込み日記「カノン風」「霧雨」「前奏曲 ヘ短調」

 6・7月のあいだに自作品を打ち込みました。カノンは思いつき、ほかの2つはロマン派に没頭していたころの過去作品の手直しです。ロマン派の影響はいま聞いてもはっきり分かるほどで、「こいつ、シューベルトショパンのあの作品とあの作品etc. を聞いていて気に入ったところをそのままパクりやがったな……」と思ってニヤリとします。

 以下、どうでもいい細かなお話。本来音楽を言葉で語るのは野暮としか言いようがありませんが、ここはわたしの日記なので平然と語ります。というか正直、周りに対して自作品を「音楽」とか「作品」とか言うのも恥ずかしい。

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「眠っているとき、脳では凄いことが起きている」

 面白かったので思い出しながら羅列してみる。睡眠(とくにレム睡眠)時の脳活動、そしてその産物でもある夢。これは人間にとってどんな意味があるんだろう? 結局よく分からない部分もあるのだけど、分かってきた部分もあるらしい。以前テレビで見て知ったかぶっていた知識がずいぶん更新された。

睡眠と思考

 睡眠が不足すると、考え方や道徳的な判断にも影響を及ぼすらしい。例えば危険をともなう行動によって快感を感じやすくなる一方で、つらい状況にによって反応するはずの部分が反応しにくくなったりする。結果として、危険をともなう行動を選びやすくなる(それは高層ビルを命綱なしで歩くなど、危険な行為を好む人の反応に近いという)。あるいは、否定的な感情を取り除く働きが弱り、否定的な認知に反応する部分が過度に興奮する結果、怒りやすくなったりする。また、創造的な思考をする能力が低下し固執するような思考をしやすくなる。

 眠りが不足すると脳の反応自体が変わってしまう。イライラして性格が変わるなどと言うのではなくて、人が「性格」と呼んでいるもの自体が変わってしまうということかもしれない。なんだかイライラしていたり、世のなかを悲観的に見て、悲観的なニュースばかりを取り入れていることに気づいたとき、じつは睡眠が足りていないのではないかと考えてみたい。

 レム睡眠、睡眠の段階

 レム睡眠というのは REM (Rapid Eye Movement) の略で、その名のとおり急速に眼球が運動しているのだという。脳も部分的に活発に動いていて、例えばアセチルコリンという覚醒系の神経伝達物質は覚醒時と同等かそれ以上に放出されているらしい。とはいえ、それは「レム睡眠は浅い睡眠で、ノンレム睡眠は深い睡眠である」というような単純な話ではないらしい。レム睡眠下は体は休んでいて、眼球以外の運動はほとんど出来ない(もちろん呼吸などは別)。深い睡眠であるにもかかわらず、脳は活発に動いているということから、「逆説睡眠」とも呼ばれるらしい。

 睡眠中に活発になると言えば、SWS (Slow Wave Sleep) もそうらしい。徐波睡眠と呼ばれるこの睡眠では、脳波が特徴的な大きくゆったりとした波を描くという。脳が全体的に、生理学的に距離のある部位同士が連動するかのように、波長をそろえることでこの大きな波が作られる。この段階の睡眠が記憶学習と何らかの関わりがあるのではないか、という話もある。

眠っているとき、脳では凄いことが起きている: 眠りと夢と記憶の秘密

眠っているとき、脳では凄いことが起きている: 眠りと夢と記憶の秘密