もの知らず日記

積み重なる駄文、天にブーメラン

M. Moszkowski, 3 Concert Studies No. 2 in C-sharp minor, Op. 24-2.

 モシュコフスキのConcert Studies No. 2, Op.24-2 を打ち込みました。表題のとおりなかなか派手な作品だと思うのですがYoutubeにも動画がなかったので打ち込みました。主部左手の上下対称的な音型の伴奏と、シンプルなcantabileの旋律が印象的です(こんなの弾けるのか?)。片手でのオクターブによるショパン的なレチタティーヴォも興味深いところです。中間部は一転して変ニ長調のdolce. armoniosoのアルペジオのなかから両手によって主旋律が浮かび上がる部分はとても華やかな響きです。いわゆる「三本の手」的な演出ですね。主部に戻りコーダに入ります。緊張が最大限に達しprecipitato(急転直下)ですべてを出し切って燃え尽きたように、静かに幕を閉じます。とてもドラマチックな作品です。このOp. 24 は第一番も素敵な作品なのでおすすめしたいです。モシュコフスキのピアノ作品は「火花」などは楽譜が出ているのをよく見かけるのですが、それでも知られていない作品がまだまだあります。このConcert Studies, No. 2 も、演奏してくれる人が居たらいいなぁ……と思います。

参照した楽譜はこちら https://imslp.org/wiki/3_Concert_Studies,Op.24(Moszkowski,_Moritz)

ムカデ、ゴキブリ、人間

 今日、初めてムカデを見た。帰りの夜道をボケーっと歩いていたら、はっきりしない足元になにか見慣れぬ動きをするものが見えた。ゾッとしてよく見てみると、それはムカデだった。

 もちろんムカデというものは知っているけれど、本や動画でしか見たことがなかった。下手をするとそうしたものでさえ見たことがない。ただ覚えているのは、福岡に住んでいる人に話を聞いたときに「うちにたびたびムカデが出る。噛まれることもある」と聞いて、福岡と言うのは恐ろしいところだという思いを抱いたということだ(たかがムカデ、大げさで失礼な話だが)。

 夜道につやつや光る赤黒いそれを、ワイシャツにスーツに革靴の男は数分のあいだじっと観察していた。不審者である。ムカデは何を求めてどこに向かっているのか。その正確な足の運び。なぜこんな歩き方で歩けるのか、ムカデに聞いてみたい気もする。ムカデがそれを懸命に考えることで、かえって歩けなくなってしまった……という寓話を思い出す。

 人間の慣れる力、環境に適応する力というのは驚くべきものがあるから、わたしだってムカデに日々接している環境にほうり込まれれば慣れるのだろうとは思う。そのような環境に身を置こうとは思えないが……。それで思い出すのは、小学生のころにある友人の友人の家に行ったときのことだった。その家はいわゆるゴミ屋敷で、床にはゴミが丸出しであったりゴミ袋に入った状態で散乱していて足場がなかった。そこに大小さまざまなゴキブリが2,3度ちらっと見えた。わたしは驚いたが、その子は何とも無さそうな顔をしていた。ゴキブリでさえ慣れるものなのか、と子どもながらに思ったものだ。

 そう考えると、むしろこれだけ適応力のある人間という生き物が追いつめられる社会というのは何なのか、と思ったりもする。もちろんそれは比喩にしても飛躍しすぎた話ではあるのだけど、人間社会のストレス(例えば新しい職場に馴染もうとするときや、嫌な人間と付き合い続けることと今後もそうであろうという絶望感など)というのは、自宅に毎日ゴキブリが出続けるときのストレスとはまったく違う。ゴキブリは慣れるのかもしれないが嫌いな人間というのはたぶん慣れない。ゴキブリと、ゴキブリと同じくらい嫌いな人間とでは、なにが違うのだろうか(これは空想実験に過ぎない。幸い、わたしにはそこまで嫌いな人間を作らずに生きることが出来ている)。

 帰ってきてボケーッとしながら、このような迷走した空想を展開していた。

人を試すことについて

 悪趣味なことに、わたしはあえて人を試してみたりする。……人を試す? すこし違う。ちょっとした社会実験ごっこと言った方がいいかもしれない。

 人を試すのは好きではない。前提として、ここで言う「人を試す」というのは、ある特定の他者の真意を引き出すために、自分の本位ではない言動や行動をとること、というくらいの意味あいにしておこう(学校や資格の試験なども人の能力を試すと言えなくないかもしれないけれど、それを含んだら収拾がつかない)。

 人を試すというのは、基本的に相手を不快にさせるものだ。あの手この手で他人の本心という見えないものを引き出そうとする。その点だけで言えばインタビューと近いのかもしれないが、その根本にあるのは相手への関心でも信頼でもなく、疑心でしかない。そして人を試そうとする人は、自分の疑心を覆い隠しながら、自分だけは相手の本心という欲しいものを手に入れようとする。こういうことだから、上記のような意味で試されることを不快に感じるのは当然のことだとわたしは考えている。

 少し話が長くなった。わたしがやるのはこういう「人を試す」こととは違うから、社会実験と言い直したのだ。この説明のためだけに500字近くも使ってしまった(これでも頑張って削った)。

 どのような実験かと言うと、例えば電車のホームでまだそれほど混んでいない夕方4時ごろ(ほぼ同じ状況の話は以前にも書いた)。ホームドアのまえを少し開けて立ってみる。よく言う「黄色い線より内側」に立つ。こんなホイホイにひっかかる人は多くない。なぜなら、ホームドアの直前には黄色い点字ブロックがあり、ラッシュ時でもないかぎり(本当はラッシュ時でも)、通路として空けておくべきことには疑いがない。それに、すでに人が立っているにもかかわらずその前に立つということは、立っている人(この場合わたし)や周囲の人に「割り込み」と解釈される可能性が非常に高い。「旅の恥はかき捨て」というような考え方をする人よりは、自分という人間がその場限りであっても他者からそのように受け取られること自体を嫌う人のほうが多いのではないか、と思う。だから並んでいる人のまえに立とうと言う人はそれほど多くないだろうし、経験的にもそれはおおむね正しいだろうと思っている。

 だが、そんな推測をあざ笑うように、平然と目の前に立つ人間がいる。「わたしが並んでいない」と解釈したのか? 「割り込めるように立っているのが悪い」と正当化したのか? 自分が座って楽をするためには何をしてもよいと思ったのか? なにも考えずに立ったのか?

 そしてそういうことをする人たちに、共通するところはあるだろうかと考えてみたりする。無邪気な老人か、顔つきのゆがんだ男性が多い気がするが、これは割り込み行為からそう印象付けてしまっていると思うので当てにならない。しかしやはりお友達になりたくはないタイプの人間であろうとは思われる。

慢心

 慢心というものを徹底的に排除したいと思うことがある。慢心があることを自覚せずにうぬぼれるのは論外としても、自分に慢心があると分かっていても、なかなか排除できないのだ。例えばスポーツの基礎的な練習などがそうだ。基礎の重要性というのはあらゆるスポーツで重要とされるものだと思うけれど、それと同じくらい油断しやすいものではないかと思う。あまりにも初歩的で、機械的なのだ。だから心のどこかで「こんなこと、自分なら簡単に出来る」と思ってしまう。

 すこし回りくどい話になるけれど、いまわたしは仕事でそれを感じている。「これくらい、頑張れば出来るだろう」と思ってしまっている。それはあまりにも初歩的なことで、能力的には出来るものだろうとは思っている。だが、その慢心が思わぬ失敗を招くこともある。そしてそれはたいてい本当に「思わぬこと」なのだ。そして失敗したあとになってから「なぜこんなことでこんなミスを……」と落胆するのがオチだ。

 わたしがここで問題にしたいのは、失敗をしない方法ではない。それは「失敗する余地があるときは必ず失敗する」というような格言をつねに戒めとするしかない。わたしが問題にしたいのは、自分で自分に慢心があると気づいたとき、どのように気持ちを引き締めることが出来るか、ということだ。

 最近よく思うのは、心をゼロの状態に戻すことが出来ないか、ということだ。今までの自分を忘れて、目の前の現実を見る。ある人が語った、「役者にとって必要な才能とは、物事を真っ直ぐに見つめることだ」という言葉を思い出す。わたしもこの意味でまさに役者のように、透徹したまなざしを持ちたい。慢心を排除するだとか、そういうレベルを抜け出したい。

 自分の精神的な未熟さを思うと、久しぶりの凍てつく風がいっそう沁みた。

今日の夢

 駅からおいかけっこをしている。広場を出て緑色の橋を渡る。後ろを振り返ると誰かが追いかけてきている。橋を渡ったさきを左手に曲がり、川沿いを進んでまた渡る。そのさきは右手に折れてスロープになっていて、川沿いを歩くテラスへと繋がっている。「しかしこのルートはばれる」と思った私は、猫のように跳躍し、街灯の屋根などを一々伝いながら、スロープとは反対側の茂みに飛び出す。振り返るとだれも来ていない。わたしは公園の雑木林をゆっくりと歩き出す。紅葉を踏みしめ、はと(からす?)がついてきたり、追い越したりしている。「ようやく家だ」と思ったら、遠く家の前に、わたしを追ってきていたI君がいた。まっ黄色のジャージを着ていて、このうえないほどに目立っている。わたしが帰ろうかどうしようかと迷っていたら、そこにサッカー部のH君がきた。彼に頼んで、I君がうまく立ち退くように仕向けてもらうことにした。しかし交渉は失敗し、こちらに気づいたI君が猛烈な勢いで駆け込んでくる。わたしはとっさに近くの森に入り、崖を上って高台に逃げようとする。なぜか途中ロッククライミングみたいになっているところもあった。小さな高台になんとか上ると、わたしは甲冑をつけていて、「今の治世は誰のお陰か」という。H君が「武田のお陰です」と言う。そこからすったもんだの説得があって、ついに今川家のI君もそれを認めた。みな甲冑をつけていた。高台から遠く夕日を眺めていたら、目が覚めた。