もの知らず日記

積み重なる駄文、天にブーメラン

今日の夢

 自宅にいる。私のカップ焼きそばがつくりかけで置いてある。私は、父が作りかけのまま放置していったらしいと考え、激怒する。

 

 水天宮前の、高速道路の下を歩いている。横断歩道の向こうに黄色い人たちがいて、横断歩道を渡ると私に話しかけてきた。黄色い彼・彼女たちはなんらかの宗教の信者で、なぜかマラソンをしている。私も参加することになった。何人か追い越すうちに、ふと女性に見覚えがある気がした。なぜか中国風の廊下を通っていた。

 

 狭い坂道をのぼっている。蛇行する急な坂道をのぼって行く。両脇は丸い石でできた石垣に囲まれていて、高い街路樹のおかげで昼だと言うのに薄暗い。その坂の突き当たり、曲がりくねった急斜面の先に、群青色の小さな小屋がある。先の宗教の開祖がいるらしい。黒く縁取られたかるた状の札の束を受けとる(黒い縁はドイツで人の死を伝える手紙を連想させる)。なにかが書いてあったが、読めない。

 

 デヴィッド・スーシェ氏と檀れいさんが手を取り合って坂道を降りてゆく。テレビで見た、フランス、ニース旧市街の市場を想像させる。名探偵ポアロのワンシーンのようだ(実際には坂はないはず、またそのようなシーンも当然ない)。

 

今日の夢

 母と散歩している。目の前には高い土手がまっすぐに続いていて、その横に坂道がある。坂を上るとそこは高架下で、鉄柵の向こうに電車が一編成停まっている。しまった、行き止まりか、と思いながら、コの字型になった狭い道を進むと、やはり行き止まり。やむなく道を引き返す。

 坂を下りると、信号に出た。交差点のすぐ先に鉄道の高架があり、電車が通りすぎてゆく。青になったのを確かめ、前へ進む。高架の向こうにも交差点があり、それも突っ切る。その先に坂道がある。途中、振り返ると、街路樹の緑と、一望する坂の下の街並みが見える。美しい、と思った。さらに進むと、道は大きく曲がっていて、パチンコ屋が見える。商店街、住宅地に入る。

(ここで意識がすこし目覚めた)

 祖母宅に居る。親戚が来るとのことで、母たちは買い出しに行っている。私は部屋を掃除している。シャツがやたらたくさんある。掃除をこっそりなまけて、パイの実を食べる。

 場所は祖母宅だが、違う場面。祖母と全く関係ない面々でパーティーをしている。同級生、まんが「ピアノの森」の海。同級生からパイをぶつけられるのを察し、反撃の用意をする。パイをぶつけられたが、殴り返した。

ここで意識がすこし目覚めた)

 チーム同士の対抗イベントがあり、私のチームは職場の仲間ふたり。会場まで歩いて移動する。しかし年配の彼女たちはひどく疲れていて、途中で足を止めてしまう。相手チームには、さっきパイをぶつけようとした同級生もいる。負けられない、と思ったら場面が変わった。

 祖母宅。パイをぶつけようとした同級生らを締め出すのに成功。ドアを押さえていると、やがて抵抗も無くなった。もう入ってこないから大丈夫だ。2階に上がり、(なぜか)プレステ2でピアノの演奏を見ている「海」に「時間がない」と言い、急いで準備をさせる。私は急ごうと思っているが、海はなかなか動かない。なにか物で釣ると、ようやく動いた。よかった、と思ったところで目が醒めた。

だれか様 もの知らず拝

みなさまお元気ですか…………
と、真っ白な空間で一人呼びかけます。

天気の急変で、頭痛、めまいでお悩みの方もいるのではないでしょうか。
と、仲間を探そうとしているのがバレバレですね。

……今日はぐらっときますねぇ。
めまいの前兆のような、ぐらっという感じが何度も来ます。

めまい歴2か月のド新人ですが、最近いくらか分かってきました。
私の場合、めまいは2パターンあります。

一つは、後頭部がぎゅっとなって、直後立っていられずに崩れ落ちるパターン。
もう一つは、いきなりくらっと来るけれど、座り込んで回復を待つ余裕のあるパターン。

つらいのはもちろん前者。後者はむしろ「ええい、邪魔だ!」と振り払う感じです。はたから見れば中二病というやつですね。

今日は後頭部にさほど強くない、鈍い痛みがじんわり広がっているので、これは第一タイプのめまいが来そうな感じです。
油断が出来ません。石橋どころか、ふつうの道路だって地面をこつこつ叩いて渡らなければなりません。

というわけで、今日はただ病院で血液検査の結果を聞くだけだったのに、
いつもの倍以上の時間をかけて、ハァハァ言いながら病院へ行きました。
病院でイライラしているおじいさんの気持ちが痛いほど分かりました。

結果は「健康!」。
……皮肉なものです。

まだ当方は検査の日々が続きます。
おそらく結果は「健康!」。
ストレスですかねー、というところに落ち着くでしょう。

皆さまのご健康を、心の底から願っております。

小さな小品

 私の原点は真似っこ音楽です。好きな曲を聴き終わってしまって、その続きを勝手に考えたり、「僕もこういうものが作りたい!」と思って勢いでやってしまう。プロの木彫りの箱の細密さに感動して、自分でやってみたら、残酷に削り取られただけの悲しい箱が出来あがってしまった、という感じのことを繰りかえしています。

 私にとって「小さな小品」というのは、「ちょっとこんなの作ってみたよ」というくらいの意味合いで、芸術作品として完成された音楽とは真逆にあることを意味しています。鼻歌のようなものです。この小品も、好きな曲を聴いていてノリで作ってしまっただけなんです。拍子から調性まで一緒! フレーズの感じは違いますが、原曲を知っている人には不出来な真似っこ音楽であることがバレてしまって私が恥ずかしくなる、という次第です。

 なにかの世界観や風景をイメージして曲を作ってみることもありますが、演奏されている場面を想像して曲を作ってみることもあります。こういう場面だったら、こんな感じの曲、という感じです。この曲は後者のタイプで、ピアノの上手な人が子どもに向かって「ちょっと弾いてあげる」と言って弾いているような場面を想像して作りました。フレーズごとに「ふぅ」と一息つきながら、曲はだんだん加速してゆきます。最後は沈んで、駆け上がって、と上下を繰り返して力強く。子どもたちの方をちらりと向いて、ちょっとだけ「すごいでしょ」とアピールしている感じです。

 やっぱりそんな思いで作っているとき、作り終わったときが一番楽しいです。聞いてもらえるともっと嬉しいです。そしてまたそういう気分になったらまた作り始めるのです。

4/2 - Presto.

midi programming : Hishaism.
Instrument : pianoteq6. Erard (1922).

お口の恋人、ならぬお口の友達

 最近グミばかり食べていたので、いきおいチョコレートも噛み潰してしまった。舌で溶かしてゆっくり食べればよいものを、がりがり噛み砕いてしまった自分にハッとして、思わず心のなかで「バカ!」と叫んだ。

 チョコレートは小粒だけど、たった一つで何分も楽しむことが出来る。一粒ただそれだけでずっと楽しめるということ。やはり自分にはそれが合っていると思う。これを仮に「一粒」派と呼ぶのなら、もう片方には「二度おいしい」派も居て、その楽しみももちろん分かる。同質な味わいをずっと楽しむよりも、味や食感に変化をつけてあった方が、より多様な楽しみが得られる。

 私はどちらかと言うと、チョコレートにはそうした変化が無いほうがいい。――今ハッとしたけれど、これは「お口の友達」の話である。なにも工夫を凝らした二度三度四度と美味しいチョコレートを一切食べぬというわけではない。ともあれ、お口の友達として考えると、同じ美味しさがずっと続き、かつ飽きが来ない。私にとってチョコレートはそういう数少ない食べ物なのである。その点ではあめ玉ももちろん有力候補で、「あめ玉」派ももちろん居られるはずなのだけど、私にとってあめ玉はたいてい大きすぎる。口のなかでごろごろ転がして、転がして、ようやく適度な大きさになってくる。「あめ玉」派にとってはそれが魅力なのだろう。むしろ、私に合わせて小粒なものなどを作ったら、すぐに無くなってしまうに違いない(小粒でもなかなか無くならないあめ玉を探してみたいなと思った。こんぺいとうはどうか、繊細過ぎるか)。それに比べるとガムはかなり良いのだけど、やはり食べたあとの処理、そして味が無くなったらハイおしまいという感じがしてしまう。「ガム」派にとっては、まさにその味のなくなったガムを噛みつづけるのが快適なのではないかと思う。その点、チョコレートを食べきってから水を飲むと、口のなかはさっぱりするけど、それでもチョコレートの香りが口のなかに残っている。私はこちらを選ぶわけだ。口腔環境という点ではガムのほうがよほどよいだろうなと思う(もちろん歯みがきはしている)。

 そこで最近チョコレートに次いでハマったのがグミで、60円程度で安売り(もしかしてそれ定価では……? といま不安にかられた)されていたので2つ3つ買ってしまった。ぶどう味1つと、オレンジ味2つ。グミも味や香りの濃さと言う点ではチョコレートに引けを取らず、グミを食べて水を飲んだところで水がいろはすみかん味のような感じで喉を通ってゆくに過ぎない。ところが最近グミの恐ろしさに気がついた。後味が爽やかなものだから、ほいほい食べてしまう。それはまだいい。あるとき、というか家で用を足していたのだが、ぶどうグミの香りがした。食べているはずもないのだから、発生源はひとつしかない。2,3度確かめたが、やはり間違いは無いように思う。オレンジ味ではまだなったことがない。というかぶどうグミの件があって以来、トイレでグミの香りがしたときのあの違和感を思い出して、そんなにホイホイ食べなくなった。偶然その後日病院で血液検査を受けることがあったが、当然何の問題も無かった。最初からそんな疑いは一切考えていなかったのだけど、それでもグミは香りが強すぎるし、つい口に運んでしまいやすいと思った(一般的なチョコレートとグミではどちらのほうが香りが強いのだろうか?)。

 そんなことがあって、私のお口の恋人、というよりもお口の友達は、ふたたびチョコレートに戻ってきた。ここまで「あめ玉」派だとか「ガム」派と呼んできたが、現実には、ただこれらを好む人びとがいて、さまざまな好み方があるというだけの話である。「チョコレート」派の私も、「あめ玉」派や「ガム」派の心も持っている。そしてそれを「どのように好きなのか」という好み方の多様さは、私ごときには思いも及ばない。やはり、口寂しさを埋めるお口の恋人、あるいは友達というものは、誰にとってもそれなりにこだわりのある、語りたいところのあるテーマなのではないかと、こう思うわけである。

 さて、こんなことを考えていたくせに、友人への久しぶりのあいさつを、私は噛み潰してしまった。とんだごあいさつだ。自分を叱りつつも、ふたたびチョコレートとともに、チョコレートを味わうようにゆっくりと、落ちついて、日々を過ごしたいと思った。