もの知らず日記

積み重なる駄文、天にブーメラン

風雨

 ぬるい風と言うと、淀んでいてまとわりつくような風を想像してしたくなるけど、今夜は湿気を含んだぬるい風が叩きつけてくる。暴力的だけど生暖かくて、どこか優しいようにも感じられる。が、叩きつける風に乗って、雨も叩きつけてくる。雨は「傘なんて役に立たないよ」と言わんばかりに、あちこちから入り込んで衣服を濡らしてゆく。でも、それでもすこし心地がよい。

 風は記憶を呼び起こしてくれる。風の温度はもちろん、強さや湿気もそうだし、匂いというのもある。後に思い出と呼べるような出来事を体験しているとき、たいていはその印象的な出来事と同時に風を感じていて、後にそれを思い返すたびにそのときの風に包まれているような感覚になるし、反対にそのときのような風が吹くと、そのときの思い出が鮮明に現れる。

 今夜は何を思ったか、ぬるい風雨が吹き荒れている夜に散歩に出てみた。スリッパとジャージをびしょびしょにしながら、ふと最後にディズニーランドに行ったときのことを思い出した。もう20年ほど前になるから記憶は定かではないけど、カート(最近のニュースで、このアトラクションが無くなるか、無くなったと報じていた)に乗って、スペースツアーにも乗った。途中で執拗にチョコレート味のチュロスをねだってだだをこねたが、せいぜい親のそでを引っ張るだけで、子どもにしてはずいぶん利口だったと思う。なまじ利口だったから、大人になってからもの知らずになってしまった。それから、洞窟内を船で進むアトラクションや、水平に走るロープウェイのようなものに乗った(調べてみると”スカイウェイ”がそれに近いものの、こんなに高くは無かった気がする。それに、客を乗せたロープウェイがぶつかるなんてありえないだろう……)。前だったか後ろだったか、誰も乗っていない車両に追突した(された)のを覚えている。あとはその前後にご飯を食べたりパレードを見たりしたのだろうが、まったく覚えていない。

 今夜の風は、夜遅くにシンデレラ城に入り、薄暗い城のなかを案内されながらエレベータを上ったか下りたかしながら歩き回ってようやく外に出たときのディズニーランドの風に似ていると思った。もちろんそのときは雨は降っていなかったし(雨が降ればすぐに帰っただろうから)、もっと寒かった気もする。けれど、なぜかそのときのことを思い出した。閉園時間が近づき、子どもながらに「ディズニーランドでもこんなに寂しくなるのか」と思うほどに”ひとけ”が無くなったディズニーランドを、家族でなかば迷うようにして歩いていた。けれど、そのときの記憶には父も母も兄弟も居ない。ただ自分一人だけが”ひとけ”のなくなったディズニーランドに存在しているかのような、不思議な感覚だった。ずっと当たっていると具合が悪くなってくるのだけど、どこか心地よくて、思わず微笑んでしまう風だった。

ケチと倹約

 わたしにも「嫌い」というものがある。ただ、この「嫌い」というのはわたしが気に入らないというだけであって、だれかを否定しようというわけではないし、そこに共感を求めたいわけでもない。ただ自分がなぜ嫌いなのか、なるべく他人にも理解可能な言葉にしてみたいと思い立った。だから、「共感しない人の言葉には耳を貸しませんよ」という意味で「個人的には――」などというお題目を持ちだすつもりもない。個人的な考えなのは当たり前のこととして、日ごろ渦巻いている考えを少しずつでも分かるものにしてみたいと思う。このように言葉で説明してしまうとこれもじめじめしてきてしまうので、早速手短に書いてみることにする。

 嫌いなものの一つに、ケチというのがある。例えば、1万円のうち9900円を自分のために使っておいて、他人のためには100円の出費も惜しむケチもいれば、みんなで食べようと頼んだ15個の唐揚げのうち13個を食べつくして残りの2個を「みんなに譲ってあげる」という親切極まるケチも居る。あるいは、自分が知人からもらった土産物のまんじゅうを「みんなで食べてね」と言っておきながら、残りの2,3個になったとたんにやたら厳しく管理しはじめるというのもケチだと思う。

 ケチと倹約というのは似ているようでまったく違うと思う。お金にせよモノにせよ、使い方がまったく違う。倹約が”無駄な”出費を抑えるところに特徴があるのだとすれば、ケチというのは出費いかんの問題ではなくカネやモノそれ自体への執着となって現れる。だから、倹約家は日ごろ節約したお金であっても”必要”と判断すれば支出することをためらわない。ケチは、日ごろから節約をするとしても(しない場合もある)、必要なときにも支出しようとはしない。

 わたしが念頭に置いているケチというのは、出費いかんの問題ではなく執着の問題だから、ふだんは節約をしないくせに、お金やモノが無くなってきてから急にそれを惜しみ始めるということも少なくない。もちろんそういう気持ちは誰にでもありうる。が、ケチに至ってはその度合いがまったく違う。倹約家が日ごろから倹約を行なうのに対して、ケチは日ごろの行いに関係なく、自分がそれを大切だと思ったときにだけそのモノに執着し、一切の例外なくそれを使うまいとする。倹約家はそれが必要とあれば大出費でも決断を下すのに対して、ケチは一度執着し始めたらいつまでもそれにしがみついている。

 このように書くとだいぶ意地が悪いけれど、わたしの嫌いなケチというのはそういう意地の悪いかたちでしかモノを大切にできない性癖にだけ当てはまるものだから、どうしても意地悪い表現になってしまう。反対に言えば、ケチとか(否定的なニュアンスで)倹約家と言われる人のほとんどは、ケチではないと思う。

今日の夢

2016年12月8日

鯛焼き屋、新事業始める

 清澄の商店街。鯛焼き屋がシャッターを閉めていて、同じ店主がとなりに別の小さな店を出している。店主と話すと、経営が厳しいので新しく小さな店を出したのだと言う。さらに斜向かいの別の建物に案内される。学校の調理実習室のような、無機質な空間。ここで野菜を使った料理教室を開いているらしい。野菜は店主のつてで直接仕入れたもので、ダンボール箱にはいろとりどり、季節もばらばらの野菜が無造作に詰め込まれている。

細い路地

車の入れない細い街路。トタン屋根の粗末な家屋が並ぶ。周囲より低くなっており、この場所に川があったことが窺える(と考えていた)。街路の先の小さな階段を上ると大きな通りに出た。石橋を渡ると、視点はアーケードの入り口にある建物の上にだんだん動いてゆく。建物を俯瞰しながら、「この一帯には監視カメラが張り巡らされている」というナレーションが入る。

観光街を歩き、恩師撲殺される

 京都のような観光街。不思議なことに、かつての彼女(と認識しているが、誰かは判然としない)と歩いている。クリーム色の土を踏みしめて歩く。坂道はわずかに下っており、その突き当りの道は左右に伸びており、大きな石を腰ほどまで積み上げられた石垣の上には木を丸出しにした懐かしい商店が並んでいる。なぜか「この手を離してはならない」と思っている。指を絡めるわけでもなく、ただ指だけを預け合うような、さりげないつなぎ方。修学旅行の中学生男女がすれ違い様にこちらを窺って恥ずかしそうにしている。

 石垣の下の道を左に曲がって進むと、右に緩やかに曲がったさきにテーブルがある。カフェかなにかのテラス席らしい。彼女が一段落しようと言い、席につく。すると恩師のS先生が現れる。グレーのセーターに、かばんを斜めにかけている。わたしがそれまで言えなかった感謝の言葉を述べると、先生は元気のない微笑を浮かべた。

 そこにかつての同級生T君とその仲間の一味(どちらも小学生; 顔は判然としない)がやってくる。わたしは真っ先に彼女を逃がし、先生に「逃げよう」と言った。だが先生は怒りをあらわにし、T君たちに向かって飛び込んでいった。真っ先にT君の顔面を殴り飛ばし、はじめは大人の力で善戦しているように思えた。

 しかし多勢に無勢、T君が両手で抱えた石を後ろから先生の頭めがけて振りおろすと、動きが止まった。わたしはその全体を眺めながら、呆けたように立ち尽くしていた。「やめろ」とは思うが、言葉にはならない。T君はふたたび大きな石を先生の頭に振りおろす。先生は倒れ、うつぶせになったまま動かなかった。

最上階のないアパート

 「細い路地」の続きか、「観光街」で逃げ出した彼女の視点だったと思う。何かを救うために、何かを手に入れなければならない。じぐざぐに入り組んだ石段の数々を上り、アパートに入った(判然としない)。階段を上る。左に曲がっては上り、左に曲がっては上り、そうして何度も上ったところに鉄格子の柵が現れる。柵には南京錠がかかっており、間違いなく開かないと認識する。ここまでかと思ったが、上の階に住む誰かが柵の向こう側から降りてきて、開けてくれる。

貧乏人

500円あれば心が踊りだし、

1000円あれば胸に火が宿る。

5000円あれば無敵になって、

10000円あればどんなことでも出来る。

……ような気がしてくる。

わたしはそんな貧乏人。