もの知らず日記

積み重なる駄文、天にブーメラン

お口の恋人、ならぬお口の友達

 最近グミばかり食べていたので、いきおいチョコレートも噛み潰してしまった。舌で溶かしてゆっくり食べればよいものを、がりがり噛み砕いてしまった自分にハッとして、思わず心のなかで「バカ!」と叫んだ。

 チョコレートは小粒だけど、たった一つで何分も楽しむことが出来る。一粒ただそれだけでずっと楽しめるということ。やはり自分にはそれが合っていると思う。これを仮に「一粒」派と呼ぶのなら、もう片方には「二度おいしい」派も居て、その楽しみももちろん分かる。同質な味わいをずっと楽しむよりも、味や食感に変化をつけてあった方が、より多様な楽しみが得られる。

 私はどちらかと言うと、チョコレートにはそうした変化が無いほうがいい。――今ハッとしたけれど、これは「お口の友達」の話である。なにも工夫を凝らした二度三度四度と美味しいチョコレートを一切食べぬというわけではない。ともあれ、お口の友達として考えると、同じ美味しさがずっと続き、かつ飽きが来ない。私にとってチョコレートはそういう数少ない食べ物なのである。その点ではあめ玉ももちろん有力候補で、「あめ玉」派ももちろん居られるはずなのだけど、私にとってあめ玉はたいてい大きすぎる。口のなかでごろごろ転がして、転がして、ようやく適度な大きさになってくる。「あめ玉」派にとってはそれが魅力なのだろう。むしろ、私に合わせて小粒なものなどを作ったら、すぐに無くなってしまうに違いない(小粒でもなかなか無くならないあめ玉を探してみたいなと思った。こんぺいとうはどうか、繊細過ぎるか)。それに比べるとガムはかなり良いのだけど、やはり食べたあとの処理、そして味が無くなったらハイおしまいという感じがしてしまう。「ガム」派にとっては、まさにその味のなくなったガムを噛みつづけるのが快適なのではないかと思う。その点、チョコレートを食べきってから水を飲むと、口のなかはさっぱりするけど、それでもチョコレートの香りが口のなかに残っている。私はこちらを選ぶわけだ。口腔環境という点ではガムのほうがよほどよいだろうなと思う(もちろん歯みがきはしている)。

 そこで最近チョコレートに次いでハマったのがグミで、60円程度で安売り(もしかしてそれ定価では……? といま不安にかられた)されていたので2つ3つ買ってしまった。ぶどう味1つと、オレンジ味2つ。グミも味や香りの濃さと言う点ではチョコレートに引けを取らず、グミを食べて水を飲んだところで水がいろはすみかん味のような感じで喉を通ってゆくに過ぎない。ところが最近グミの恐ろしさに気がついた。後味が爽やかなものだから、ほいほい食べてしまう。それはまだいい。あるとき、というか家で用を足していたのだが、ぶどうグミの香りがした。食べているはずもないのだから、発生源はひとつしかない。2,3度確かめたが、やはり間違いは無いように思う。オレンジ味ではまだなったことがない。というかぶどうグミの件があって以来、トイレでグミの香りがしたときのあの違和感を思い出して、そんなにホイホイ食べなくなった。偶然その後日病院で血液検査を受けることがあったが、当然何の問題も無かった。最初からそんな疑いは一切考えていなかったのだけど、それでもグミは香りが強すぎるし、つい口に運んでしまいやすいと思った(一般的なチョコレートとグミではどちらのほうが香りが強いのだろうか?)。

 そんなことがあって、私のお口の恋人、というよりもお口の友達は、ふたたびチョコレートに戻ってきた。ここまで「あめ玉」派だとか「ガム」派と呼んできたが、現実には、ただこれらを好む人びとがいて、さまざまな好み方があるというだけの話である。「チョコレート」派の私も、「あめ玉」派や「ガム」派の心も持っている。そしてそれを「どのように好きなのか」という好み方の多様さは、私ごときには思いも及ばない。やはり、口寂しさを埋めるお口の恋人、あるいは友達というものは、誰にとってもそれなりにこだわりのある、語りたいところのあるテーマなのではないかと、こう思うわけである。

 さて、こんなことを考えていたくせに、友人への久しぶりのあいさつを、私は噛み潰してしまった。とんだごあいさつだ。自分を叱りつつも、ふたたびチョコレートとともに、チョコレートを味わうようにゆっくりと、落ちついて、日々を過ごしたいと思った。