もの知らず日記

積み重なる駄文、天にブーメラン

父親嫌い

 つい最近まで父親が嫌いだと思っていたのだが、「見ていられない」と言ったほうが的を射ていることに気がついた。好き嫌いでいえば、親だから当然好きなのだ。好きだからこそ見ていられないという思いがする。クイズ番組を見れば解答を間違えるゲストを見て必ず「バカ」と言う。「そんなことも知らないのか」と言う。自分の分からない問題があれば、スマホで調べて「答えはこれだ」と威張り散らす。それでもゲストが間違えると「バカ」と言う(自分も分からなかったのに……)。母がバラエティ番組を見ようとすると「バカ番組」と言う。「お前はそういうのが好きだよな」と言う。「晩飯作ってやる、なにがいい」と聞いてくるが、こちらが「照り焼きチキンがいい」と言うと「それならポトフのほうがいい」などと言う(料理のジャンルがまるで違うのは、自分が作りたい料理があらかじめ決まっているからだ)。ハンカチーフの色を変えるマジックで、観客のリクエストを「あ~黄色はお休みなの(こんな口調だったか?)」などとごまかすマギー史郎さんのようだ。しかも本家と違ってただただ不愉快である。

 むかしの父はこんな人ではなかった。立派に務めを果たしていたからこそ、その知識にもつねづね尊敬の念を覚えたものだ。そして、すこし大げさに言えば、周りにも誇ることができたのだ。けれども今では、何もせず、過去の業績にしがみついてただ他者を否定するお山の大将になってしまった。きっと、失われつつある自尊心をそうやって他者を否定することで埋め合わせようとしているのだ。それは、何の努力もせずに自尊心を取り戻すもっとも簡単な方法だから。年老いて出来ないことが増えてゆく自分を、そうやって支えようとしているのだろう。ちょっとお高いレストランで「このソースはちょっと塩気が足りないね」などとほざけば、自分が料理の分かる、エライ奴なのだと思い込むことが出来る。高級レストランの上に立ったような気分になれる。そんな楽しみ方しかできなくなってしまった父の、淀みきった心の濁りを晴らしたい。

 もっとも、では自分は年老いたときにそのようにならずに居られるかと考えると、その自信もない。けれど、そのような淀んだ心で晩年を生きるのは、あまりにも悲しい。心が歪めば、人は遠ざかり、人が遠ざかれば、心は歪む。そうしてますます世のなかに対する偏見が強まり、やがては誰にも尊敬されずに一生を終えなければならない。考えるだけでも恐ろしいことだ。

 もはや父と心から本当に会話をすることは無いのかもしれない。きっと父は、最期のときまで自分の心をごまかしながら生き続ける。自分が情けない。申し訳がない。そんなことは思っていても口には出来ない。世に言う「男のさが」というやつかもしれない。それが出来たときこそ、美しい、裸の心に戻れると思うのだが。わたしも死ぬ心構えというものをしなければならないと思う。それで、自戒の意味も込めてこれを書いてみた。