もの知らず日記

積み重なる駄文、天にブーメラン

祖母のお弁当

 「ばあばのお弁当はいや」と言われた、という話を聞いた。話によれば、その家ではふだん母親が弁当を作るのだが、それが出来ないときは祖母が作るのだという。そして、ほかの子たちのお弁当がキャラクターをかたどった華やかなのに対して、祖母が作った自分のお弁当はさみしいから嫌だ、ということらしい。

 物事を見た目だけで捉えてしまうのだ。キャラ弁にだって、思いやりの詰まったお弁当もあれば、親の自己満足的な趣味に過ぎないものもあるかもしれない。他方、質素な弁当にしても、季節感や食べやすさを考えながらつくったものもあれば、腹を満たすことさえ出来ればいいだろうと、その程度の思いやりしか込められていないお弁当もあるだろう。けれども、その子にはそういうことは見えていない。”キャラ弁”であれふつうのお弁当であれ、そのお弁当に想像力を向けてみれば、いろいろなものが見えてくる。そのように育ってほしいと、見知らぬ他人の子にわたしは願うのである。

 もちろん、毎日のように弁当を作る母親にとって、毎日のようにそのような思いを込め続けるというのは尋常なことではない。ただ、「ばあば」がつくったそのお弁当は、間違いなく孫に対する思いやりに満ちた弁当である。見た目や美味しさというものは、分かりやすいけれども、それがすべてではない。一目見て美しいと思い、醜いと思う。一口食べて、うまいと思い、まずいと思う。けれども、さらに心で味わうというのも大切なことだとわたしは思う。

 心で味わうには、心が穏やかであることがまず欠かせない。そうでなければ、命を頂くだとか、作り手の心遣いなど面倒くさい考えて食べる余裕は無いだろう。同じように、物事を見ても心が穏やかでなければ、見やすいものだけを見て、感じやすいものを感じるだけになってしまう。そういう心の動きは、人が理性と呼ぶものにも強く影響を与えて、物事の因果関係を安直に結びつけてしまったりもする。即断即決、なんともせせこましい人たちではないかと思うのである。わたし自身、そうならないように自戒するためにこれを書いたのだ。

 お弁当の話からだいぶそれてしまったけれども、こういうこともあって、わたしは、心で味わうということ、また子どもはまずその心をはぐくむことが、すくなくとも幼少のころには肝心のことだと考えている。