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もの知らず日記

積み重なる駄文、天にブーメラン

ケチと倹約

 わたしにも「嫌い」というものがある。ただ、この「嫌い」というのはわたしが気に入らないというだけであって、だれかを否定しようというわけではないし、そこに共感を求めたいわけでもない。ただ自分がなぜ嫌いなのか、なるべく他人にも理解可能な言葉にしてみたいと思い立った。だから、「共感しない人の言葉には耳を貸しませんよ」という意味で「個人的には――」などというお題目を持ちだすつもりもない。個人的な考えなのは当たり前のこととして、日ごろ渦巻いている考えを少しずつでも分かるものにしてみたいと思う。このように言葉で説明してしまうとこれもじめじめしてきてしまうので、早速手短に書いてみることにする。

 嫌いなものの一つに、ケチというのがある。例えば、1万円のうち9900円を自分のために使っておいて、他人のためには100円の出費も惜しむケチもいれば、みんなで食べようと頼んだ15個の唐揚げのうち13個を食べつくして残りの2個を「みんなに譲ってあげる」という親切極まるケチも居る。あるいは、自分が知人からもらった土産物のまんじゅうを「みんなで食べてね」と言っておきながら、残りの2,3個になったとたんにやたら厳しく管理しはじめるというのもケチだと思う。

 ケチと倹約というのは似ているようでまったく違うと思う。お金にせよモノにせよ、使い方がまったく違う。倹約が”無駄な”出費を抑えるところに特徴があるのだとすれば、ケチというのは出費いかんの問題ではなくカネやモノそれ自体への執着となって現れる。だから、倹約家は日ごろ節約したお金であっても”必要”と判断すれば支出することをためらわない。ケチは、日ごろから節約をするとしても(しない場合もある)、必要なときにも支出しようとはしない。

 わたしが念頭に置いているケチというのは、出費いかんの問題ではなく執着の問題だから、ふだんは節約をしないくせに、お金やモノが無くなってきてから急にそれを惜しみ始めるということも少なくない。もちろんそういう気持ちは誰にでもありうる。が、ケチに至ってはその度合いがまったく違う。倹約家が日ごろから倹約を行なうのに対して、ケチは日ごろの行いに関係なく、自分がそれを大切だと思ったときにだけそのモノに執着し、一切の例外なくそれを使うまいとする。倹約家はそれが必要とあれば大出費でも決断を下すのに対して、ケチは一度執着し始めたらいつまでもそれにしがみついている。

 このように書くとだいぶ意地が悪いけれど、わたしの嫌いなケチというのはそういう意地の悪いかたちでしかモノを大切にできない性癖にだけ当てはまるものだから、どうしても意地悪い表現になってしまう。反対に言えば、ケチとか(否定的なニュアンスで)倹約家と言われる人のほとんどは、ケチではないと思う。