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もの知らず日記

積み重なる駄文、天にブーメラン

「コミュ障」

 レストランで、他人の座席につまづいた人がいた。その人は謝りもせず、何ごともなかったかのように席へ戻っていった。それを見てわたしの頭のなかに浮かんだのは、「コミュ障」という言葉だった。

「コミュ障」をコミュニケーションの障害だとするなら、この世界は「コミュ障」だらけではないかとも思う。コミュニケーションと言っても、自分―身内の場合と、自分―知人の場合と、自分―赤の他人の場合では違う。その例がまさにレストランの話で、他人の席につまづいた彼は、おそらく連れの前ではとても良い人なのかもしれない。けれど、他者に対してはその気づかいを向けることがなかった。もちろん、イスにつまづいたことに気がつかなかったという可能性や、ただ謝る機会を逸してしまっただけだという可能性もあるけれど。

 他の例だと、誰かと食事をしているのにスマートフォンを操作する。もちろん状況にもよるけれど、”沈黙の苦痛を回避するため”にスマートフォンを使うのだとしたら、これも立派な「コミュ障」ではないのか。もちろん、スマートフォンが悪いという話ではまったくない。

 あるいは、仲間を引き連れて一人をいじめようとする子ども。これは仲間がいるのだから「コミュ障」ではない。けれど、コミュニケーションの取り方としては明らかに間違っている。他者を攻撃するというかたちでコミュニケーションをとる、あるいはそれによって結束を図るというのは、「コミュ障」ではないのか。

 コミュニケーションという言葉を個人対個人に限定したとしても、いろいろな「障害」が考えられる。それは「相手がどう思っているか、どう思うだろうか」という共感性の問題でもある。

 わたしも他人も「コミュ障」で有り得る。他人と完全に意思疎通が図れたと思ったことは一度もない。わたしと他人は決定的に、どこまでも違う存在だと、無力な存在だとさえ感じる。わたしに出来るのは、歩み寄ろうという意志を示し、近づいてゆくことだけだ。だから、他人を「コミュ障」と呼ぶ前に、自分が彼とコミュニケーションをとるためになにが出来るだろうかと、考えるばかりである。