もの知らず日記

積み重なる駄文、天にブーメラン

打ち込み日記――子どもの楽しみ

 僕はクラシック音楽が好きだ。聴くのも好きだけど、コンピュータで再現することも好きだ。日ごろから、演奏を聴いたり楽譜を見るたびに、こう弾いたらどうか、ああ弾いたらどうか、と考えている。ちょうど、子どもが先生に向かって算数の問題の答えを嬉々として叫んでいるようなものだ。3+8を「38!」と答えることもあるかもしれないが、クラシック音楽愛好家の方が拙作を聴くことがあれば、大人の目線で「ははは、38ではないよ」と優しく教えてほしいものだ(実際、そういう大人の方々に音の間違いなどを教えていただいて、何度も助けられている)。

 ただ音楽の場合に難しいのは、算数のように3+8などと問題が決まっているわけではないし、問題から答えがまっすぐに導き出されるわけでもないということがある。それに、答えがあるかどうかが分からないし、答えから外れたところにまた違った答えがあることもあるのだ。そもそも、答えがあるとして、その通りに演奏する必要があるか、という問題もある。

 僕が打ち込んできたショパンのピアノ作品について言えば、音の高さや長さという点では、ごく基本的な部分では答えがあると一応は言える。基本の音を意図的に外す、つまりアレンジを加えることは、それがカテゴリーとしてのクラシック音楽である限りは許されない。ところがそれも「ごく基本的な部分では”ある”」としか言いようがない。ショパン自身がそのときどきでアレンジを加えていたことが確認されている場合には”複数の答えがある”ということになるし、ショパンは伴奏の左手を正確にリズムを刻み、右手はそのうえを自由に歌っていたという証言がいくつもあるから、これはショパン自身が音(の長さ)を外していたとも言える。つまり多くの作品について、楽譜にある答えは基本形の答えでしかないのだ。そこから答え自体が即自的に変化する可能性を内に秘めている。

 またもうすこし細かい点で言えば、ペダルの使い方にも一応の正解がないわけではない。ショパンの作品のほとんどには、音を響かせるペダルの指示が細かく書き込まれている。ところがこれも答えとは言えない。一般的には、「当時の楽器とは違う」という口実から、その指示を活かすように、自分の裁量、自分の耳でペダルを自由に踏み替えるというのが多いと思う。聞こえはいいけれど、要するにショパンの指示を無視して、想像上の「ショパン」的な響きを追究しているということになる。それが正解である場合と、まったくそうでない場合と、だれが判別できるのだろうか。

 まして、細部における緩急の付け方やアーティキュレーション(スラー、スタッカートなど)の解釈ともなると、そこにはあらゆる答えが考えられる(先に述べたとおり、答えがあるとして、その通りに演奏する必要があるかという問題もあるけれど、ここでは割愛)。

 さらにショパンの場合には様々な版が存在するという大問題がある。それぞれが異なる底本や資料を、異なる優先順位で用いている。当然書いてある内容も違うわけだから、算数の比喩に倣うなら、出題する時点から問題が異なっているといってよい。

 こうした問題が山のようにあるのだから、そこから何を見出すかというのは人によって異なるのが自然だと思う。その答えに対して「音楽的に正しい」とか、「素人考えだから間違っている」ということが言えるのだろうか。僕は、答えを求め、それが正しいと、制作した時点ではそう確信している。けれどそれは万人に共通する答えを提示したいわけではない。それは、こういう解釈もあるのではないか、こういう演奏も面白いのではないか、と提案しているにすぎない。各人がそれぞれに作品に向かい合い、それぞれが「正しい」と思う答えを提出するなら、そこに十人十色の答えがあったほうが面白いと思うし、そこで大切になるのは正しいかどうかではなく、美しいと思えるかどうかということだと思う。極めて遅いテンポで弾かれるモーツァルトトルコ行進曲も、多くの人にとって「正しい」と思えるものはないかもしれないが、そこにはその演奏者による正しさがあり、また違った魅力がある。ここで「演奏の美しさとはなにか」という疑問が浮かぶのだが、そんな高尚な問題に首をつっこめるほど音楽鑑賞経験もないのでやめておく。ただ、耳慣れた演奏とでもいうか、いつもの同じように美しい演奏、量産品のような演奏というのもあるのではないか、という所感については、やや暴論めいた問題提起、それも出尽くしたようなものではあるけれど、自分の考えとして書いておきたい。

 少し話がそれた。このようにして答えを求めてゆく演奏者に比べると、評論する人の方がよほど「正しさ」を求められる苛酷な仕事ではないかと思う。聴いただけで演奏者の思考を追随し、そこに感性的な表現も読み取らないといけない。この意味で、音楽鑑賞をしっかりできる人というのは、本当の音楽家だなと僕は思う。ただ本当の演奏者というのは、よい聴き手でもあるわけだから、そうした人びとの世界に素人の入り込む余地はまったくないだろう。ただ、すべての演奏者が良い聴き手でもあるのか、ここでいう本当の演奏者であるのか、ということはもう一つ疑問として僕の中にある。

 とにかく、ただ問題に取り組むのが楽しい一心で作っている素人は、ああしたらどうか、こうしたらどうか、と色々なことを試して「38!」などとまぬけな答えを提出する子どもの楽しみを享受している。それはよい演奏をつくるというよりも、ただ実験が楽しいという感覚に近い。作品に対して自分なりの答えを見つけ、自分なりの美しさを作り上げることができる。こんなに楽しいことはなかなかない。