もの知らず日記

積み重なる駄文、天にブーメラン

落胆と期待について

 落ち込むというのは、じつは期待しすぎていることに由来するものもあると思う。そういうときに「落ち込む必要がないんだ」と気づくことが出来れば、心はうんと楽になる。

 期待しすぎているというのは、本当は自分が出来ないことなのに、「自分なら出来るだろう」とか、「しないといけない」と考えてしまうということだ。あるいは、注意深く「これは出来ないだろう」と思っていても、心のどこかで出来るんじゃないかという思いが入ってしまうこともある。例えば受験なら、自分の学力よりも高い学校に挑戦しているのに、合格するんじゃないかという期待が膨らんでしまう。勝算は3割ぐらいだろうと分かっているのに、内心では7割8割勝つ気でいる。もちろん、そういう過信がよい方向に働くこともある。けれど、自分の能力や勝算を見誤れば、自分が傷つくことにもなりかねない。

 どうしたらそうやって気がつくことができるのか。一つには、願望と自己評価を区別して、徹底的に評価することだと思う。受験にしても、合格の見込みがどれくらいあるかと考えることは、合格への熱意と矛盾するものではない。合格したいけれど、勝算はあまりない、と判断することもあるはずだ。犯してしまいがちなミスは、そうやって勝算を考慮するさいに、願望というバイアスが働いてしまうことだ。実際には勝算があまりないのに、合格したい、自分はこんなに頑張った、などと言う余計な要素が、過剰なやる気を生んでしまうことがありうる。

 もう一つは、諦めることだと思う。世の中の物事が自分の思い通りに動くことなどほとんどない。とくに資格の試験などは合格する方がまれということもある。そこに自分が通るだろうなどと、楽観的な期待を抱かないことだ。これは「何ごとにも一切期待を持つな」とか「悲観的になれ」というような話ではなくて、思い通りに行くことがないからこそ、思い通りの未来になるように努力をすべきだということだ。そして、予想外の結果について一喜一憂すべきではないということだ。自分が何かに期待をしたときに、それが返ってくるかがまったく分からない場合がある。そういうときに期待をしすぎると、結局は自分が傷つくことになる。だから、徹底的に諦めることが必要になる。これは願望と自己評価の話と関わるけれど、自分が努力したという事実と、実際に目標を達成できるかには直接的なつながりはない。努力の方向が違えば、努力の成果が生まれていなければ、目標達成のためにはまったく意味がない。徹底的に諦めるというのは、自己評価をすることとも密接に関わる。

 自己評価というのは、そのほとんどは自分の無能さと向き合うつらい作業になる。が、だからこそ、他人や物事に対して期待を抱くことも減る。

 こういう考え方は、悲観的だと思う。自分の期待通りに物事が運ぶと信じていた方が、よほど意気揚々としているだろうと思う。けれど、悲観的だからこそ、現実的な問題意識に目を向けることができる。そしてそこから自分の目標達成のために力強く歩を進めることができる。自分の人生を自分で作るんだという熱意と、世の中思い通りにならない、という認識は矛盾しない。思い通りにならないなかで、どう自分のビジョンを持ち、その意志を貫くか。悲観というのは、とても力強いものだと、僕は思う。

 今度は、人間関係に注目して、人が思い通りに動くわけがないということについて、すこし考えてみたいと思う。