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もの知らず日記

積み重なる駄文、天にブーメラン

静かな善意

 今週のお題は「心温まるマナーの話」ということで、これには日ごろから少し思うところがあったので記録しておきたい。

 マナーというのは、心温まらないもののほうがよいと僕は思う。もちろん心温まってはいけないなどという話では決してない。

 例えば、”席を譲る”という「心温まるマナー」がある。若者が老人に席を譲るのを見れば、心温まる人はおそらく少なくない。では、”席に座らない”という選択に心温まる人がいるだろうか。

 いるはずがない。その選択から善意を読み取ることができる人のほうがおかしい。目に見えない静かな善意は存在しないに等しいのだ。

 いわゆる「心温まるマナー」というものは、ドラマのことだと僕は思う。目に見える善意のなかでも、際立って見える善意。いわば劇的な善意といえる。例えば、髪を染めたいかにもなギャルが老人に席を譲ったとか、いかついチンピラのような男が騒ぎ立てる泥酔客を叱り飛ばして黙らせたというような話が思いつく(これは架空。だが実際にもあるかもしれない)。アウトロー的な人物が善意的な振る舞いをすることによって、そこにドラマが生まれる。その善意は善人のそれよりも強調され、はっきり目に見えるかたちで示される。

 もちろん劇的な善意に感動するのが悪いとか、まして作り話じみていると言いたいわけではない。ただ、そういう劇的な善意の裏には、席を譲る恥ずかしさゆえに降りるふりをして席を譲る人や、席を譲るわざとらしさを恐れて席に座らないなどという選択をする人が無数に存在している。そしてそれもまた心温まるマナー、善意ではないかと言いたいのだ。

 誰かは「そんなものは”心温まるマナー”ではない。ただのマナーだ」と言うかもしれない。しかし、多くの人が、ここに無数の”目に見えない善意”があると信じることができたならば、彼・彼女らの目に見えない善意は心温まるマナーへと変わるだろう。

 だから、誰もが特別な善意を示す必要はないし、目に見えない「心温まるマナー」というのも一つの在り方だと思う。それは明らかにこの企画が望むようなものではない。けれど、世の中の大半はこういう善意で溢れているのではないかと、僕は考える。