もの知らず日記

積み重なる駄文、天にブーメラン

今日の夢

 温泉かなにかからの帰り。体育館のような通路を通り、建物のなかに入る。ひどくゆるやかにかけられたハシゴがあり、四つん這いになって上ってゆく。すこし上った先にあるその終端はさほど高くない建物の天井に設けられた窓に繋がっており、わたしはその天窓を開けようとする。取っ手をひねって開けようとするが、なかなか開かない。後ろから誰かがやってくる。

 どこかの大学のキャンパス。石畳が敷きつめられた街路になっていて見通しがいい。はるか遠くに大学の高層ビルが見える。左側は直角に折れ曲がって向こう側に急な下り坂、右側遠くにそのキャンパスがある。後ろにはスタジアムともいうべき体育館。そうやって周辺を見ていると、ドレスを着た人が馬車に乗ってやってくる。演奏隊を引き連れている。どうやら皇室のご令嬢がお帰りになるらしい。と、目の前のテントでつやつやしたマッチョな男たちが踊っている。そのうちの一人は学生の担任の教師だった。

 地球儀の目線。地球のどこかに、世界中の船の航路を二分する島があるという。おそらく無人であろうその島は、東を突き刺す矢じりのようなかたちをしており、あらゆる船はその島を目印にして、船は北半球に、あるいは南半球に進路を変えるのだということをわたしは知っている。北方四島からやってきた船が、南へと進路を変えていった。

 工事中のバリケードに挟まれた細道があり、柿の木がある。その奥に3階コンクリート造りの建物。テレビによくでてくる若手の社会学者が居り、話を聞いている。株式会社設立の経緯や著書(現実では一切読んでいない)について尋ねるが、「どういう意味?」と聞き返されてドキッとする。「ほら、なかなか居ないじゃないですか」とお茶を濁すと、納得してもらえたのか、「ああ、そういうこと」と言った。

回転寿司

 久しぶりに回転寿司へ行ったら、パネル注文するスタイルになっていた。だだっ広いフロアのチェーン店によくあるような、板場が客席から見えないところにあるスタイル(つまり板前と顔を合わせないスタイル)ではおなじみだけど、板前と顔を合わせる形の店でパネルを用いているとは驚いた。つまりこう言っては否定的に聞こえてしまうが、目の前に板前が居るにもかかわらず、板前を一目も見ることなく注文ができるのである。

 しばらく行かないあいだに、とてつもない進歩を遂げたものだと思った。パネルを用いれば、板前さんは注文を聞き間違えたり忘れたりすることを防げるし、注文ミスが減るのは客にとってもうれしいことであり、何より気軽に注文ができる。他にもいろいろな利点があるだろう。ただ、どうも板前との距離感が遠のいてしまった感じがして、すこし気が引けてしまう気もした。だから、せめて皿を受け取るときに「ありがとう」くらいは言おうと思った。

 注文ミスなどはありうるものの、声をかけて注文する良さも感じていた。みんなが声をかけて注文していると、不思議とそこに流れが生じる。注文しやすい雰囲気になる(だけど、注文が重なりすぎると、板前さんが気の毒になって注文をためらってしまったりもする)。「ぶりください」「じゃあこっちにも」なんてやり取りが出ると、これまた不思議な連帯感が生じる。だからやはり声を挙げて注文するスタイルも好きだったりする。ちょうど、吉野家が券売機を使わないのと同じ(とは言っても、吉野家は券売機でいいのでは……なんて思ってしまうのだが、そのあたりは思い入れの違いか、笑)。

 とはいえ、やはり注文しやすいのは便利で、すぐにその便利さに慣れてしまった。お茶を入れるノズルも、湯呑みを押し付けるかたちではなく、給湯口の下に湯呑を置き、横についたつまみを手で回すタイプになっていた。たしかに、湯呑みを押し付ける形だと、パッと見てどこからお湯が出てくるかがちょっと分かりにくいと思っていた。ボタンに湯呑みを押し付けるというのは、一度覚えてしまえばなんてことはないが、改めて考えればちょっと特殊な動作だと思うのだ。しかも、知らずに手で直接ボタンを押した人はほぼ間違いなくヤケドをすることになる(実際に、回転寿司屋に入ったことがなさそうな、立派な身なりをした女性がヤケドをしているのを見て、板前さんとわたしがそろってあわあわしてしまったことがある)。そういうところも日々改善されているのだな……と思いながら、4,5皿食べて出てきた。

初夢

 2017年の初夢は、往年のやくざを思わせる紫色のスーツを着込んだ円楽師匠が車の下からこちらに銃を向けていて、それに気がついたわたしは空中高く飛び上がってかの師匠を頭上から突き倒しマウントをとる、という夢だった。

 初夢はその1年の吉凶を表すと言われている。果たしてこの1年がどうなるのか、わたしには不安しかない。

新年早々パソコン壊滅す

 新年早々にメイン用のパソコンが壊れた。以前のパソコンは8年使った挙句に電源が故障、自前で修理できなくはないが買い替えたほうがよかろうということで今のパソコンを買った。スペックはそれほどでもないが、ちょっとした3D遊びやら音楽づくりをやるには十分、5万円という値段にしては十分すぎるノートパソコンだった。

 それからサブ用の小さなパソコン(今はこれを使っている)などを買い、5年が経って2017年を迎えた。ところが5年間をともにしたメインパソコンとの別れはあっけなく訪れた。

 1月3日。年始の騒がしさも一段落し、ツイッターで新年のあいさつをしようと思った。大掃除できれいになった机にパソコンを立ち上げ、「あけましておめでとうございます」というお決まりの一文を打ち込む。そして続ける文章をすこし考えながら、台所から持ってきた熱い茶を飲んだ。そこからはあっという間で、肺に茶が入ったかというような苦しさに耐えきれず、盛大に茶を噴いた。あわててタオルを手に取るわたしをあざ笑うように茶はキーボードの隙間に入り込んでゆき、わたしのパソコンの中央列を根こそぎ破壊した。ご丁寧に、よく使うであろうS, N, Mといったキーまでずたずたにしていったのには、あるはずのない悪意さえ感じる。

 そのあとすこし調べてみると、直後にタオルを挟んでさかさまにするといいだとか、ドライヤーで乾かせばいいということが分かり手を尽くしてみたものの、どうにもこれらのキーが反応を返してくれることはなかった。たかがキーボードの破損、中枢は生きているのだから使えるではないか、とも思う。が、この機会に新調するのもいいのかもしれない。

 さようなら、我がパソコン。

ものを知らない:図書館の選書基準を知らない

 日本書籍出版協会が、全国の公共図書館2600館にベストセラー本の購入を控えるように申し入れた、という記事が2016年11月23日付の読売新聞にあった。

 それまで、図書館はどうやって本を選んでいるのか、選ぶべきなのか、という素朴な疑問がときどき頭に浮かぶことがあった。それはベストセラー本を買うべきか否かという点よりも、より根本的に、本を購入する段階で選別を働かせるべきなのかどうか、働かせるとすればどのように働かせているのか、という問題意識として現れた。以下、まったく調べていないのでただの戯言ではありますが。

 あえて極端に2つの立場を示すと、要求論と価値論とでも言うべき考え方があると思う。要求論(市民の要求に応えることが第一)の立場に立てば、その図書館の蔵書は小説やラノベが大半ということになるかもしれない。そこから価値論(資料の価値に応じて選定する)の立場に近づいてゆくほど、小説やラノベばかりではけしからんのではないか、ということになって、ちょっとずつ難しい本やら実用的な本が増えてゆくかもしれない。

 ここで、わたしの近所の図書館(わたしは親しみを込めて”墓場のような図書館”と呼んでいる)の話になってしまうのですが。この図書館は、ずいぶん小説が多いと感じる。子供コーナーを除いた書架の4分の1くらいが小説で、図書館は「資料を保存するスペースがない」というようなことを言って、なかなか新しい資料を購入してくれない。もちろん小説を購入するのが悪いとはまったく思わない。ただ、スペースがないというのであれば、購入する資料を選ぶべきではないかとも思う。純粋に要求の数に応じて決定するなら、時の話題になった本が選ばれるに決まっている。たしかにより多くの人が満足するかもしれない。けれど、このなかで何年何十年と読まれ続ける本が、読まれるべき本がどれだけあるのだろうか。

 もちろん、「なにが”読まれるべき本”」かという問いは明らかに危険だと思う。価値の有無を判断するということは、人びとが本を楽しむ自由を妨げかねない。そのことが分かっているだけに、要求論と価値論のあいだで、もの知らずは頭を抱えて右往左往しています。片方に「ベストセラー本は自分で買いなさいよ」と言う人がいるとすれば、「そんな小難しい本こそ、読む人が居ないんだから自分で買いなさいよ」と言う人もいるかもしれない。