もの知らず日記

積み重なる駄文、天にブーメラン

はてなブログ5周年ありがとうキャンペーンお題第1弾「はてなブロガーに5つの質問」

はてなブログ5周年ありがとうキャンペーンお題第1弾「はてなブロガーに5つの質問」

 わたしごときがブロガーを名乗ってよいものかと1時間迷った挙句、このブログの意味を確認することも出来そうだし、面白そうだと思った(わたしにはこれがもっとも重要)ので書いてみることにしました。

1.はてなブログを始めたきっかけは何ですか?

 はっきり言えばBloggerが使いにくかったのが直接的なきっかけなのですが、いくつかのブログサービスを試してみて、抜群にエディタが使いやすかったので飛びつきました。

 とはいえ、正直なところ、始める前は「喧々諤々、恐い人が多そう」という不安がありました。が、それも有名なブログに限ったお話だったようで、今は完全に安心しきっています。

 ブログ自体を始めたのは、もともとはメモ帳代わりでした。つまり、自分が考えたり思ったりしたことを少しずつまとめてみようと思った次第です。自分の考えたこと、読んだ本の記録、ソフトのトラブルを解決した自分なりの方法など。それらは最善とは限らないし、他人に価値のあるものではないかもしれない。けれど、自分の考えた証として、自分にとっては価値がある事だと思うのです。

2.ブログ名の由来を教えて!

 言葉のとおり”もの知らずの日記”ということですが、それは何も知らない人間が書いているということであり、また役に立つ話ではないということでもあります。単刀直入に言うと、はてなブログは役に立つ素晴らしい記事が多いので、自分にはそういうものは書けません、なぜならものを知らないから、という意思表示です。

3.自分のブログで一番オススメの記事

 ただの日記なので他人にオススメというものは無いのですが、いかにも自分らしい気がして、勝手に気に入っているのは以下の2つ――

dolce-sfogato.hatenablog.com

dolce-sfogato.hatenablog.com

4.はてなブログを書いていて良かったこと・気づいたこと

 一つ目は、過去の自分を見ることができること。「こんなことを考えていたな」なんて。二つ目は、人のブログを読むようになったこと。読者やテーマごとにつながりがあるし、どのブログもたいていデザインが近いから、読むストレスが少ないこと。地味ではありますが大きな魅力だと思います。

5.はてなブログに一言

 ありがとうございます、このまま続きますように。

http://blog.hatena.ne.jp/-/campaign/hatenablog-5th-anniversary

今日の夢

2016年11月5日(土)

すっかりおざなりになっていたけど、うろ覚えが多く、まとめるほどの夢が少ないため。

小児科医

 雨のアパート。建物や木々を見下ろす。白く塗られた鉄階段を上り、真新しい建物に入る。

 建物のなかには灰色のじゅうたん、胸ほどの高さのある転落防止用のガラス壁(なぜか頻出ではある)。コンサートホールのロビーか、と思った。いつの間にか行列に並んでおり、その先には検閲所がある。自分の番が来ると、金属探知機をくぐってボディチェックを受ける。

 なぜか聴診器を手にしている。自分は医者であるらしい。子どもがやってくる。聴診器を当てる。何も聞こえない。注射をし、採血をする。これも医者の仕事か、と青ざめながらやる。うまくいった。そして次はワクチンの注射、空気が入りそうになり、ゾッとする。しかしうまく行ったようだ。

命を懸けたゲーム

 家に閉じ込められている。突然あたりが暗闇に包まれ、家全体が鳴り響き、邪悪な声が喋る。「謎を解かねばお前はここで死ぬ」。問い返す間もなく、ガスコンロが異常な火力を見せ、あたりが燃え始める。

 わたしと誰か(不明)は暗闇の階段を駆け上がり、2階の様子を見る。左右の部屋を覗いている間にも首を落とされるのではないかと肝を冷やす。1回へ降り、”誰か”は濃度の高い水溶き片栗粉(もちろん現実とは異なる)をかけて火を消そうとしている。わたしは「それじゃあだめだ」と言い、消火できる道具がないかを探し回る。いつの間にかリビングに男が居り、脱出法についての問答(詳細失念)。わたしは菓子を入れる缶を持ち出し、それでフタをしようと試みるが、どうなったかは分からない。

 地図を見る。まるで黒板のような色彩の地図。それは上下に二分割されていて、上段は現実の街一帯の地図(現実の街だと”夢のわたし”は思っているが、実際にこれも違う)、下段は仮想の(この世界の)地図。等高線から水流や風の流れを考える。分からない。

 外に出て探索する。家屋と垣根に挟まれた狭い路地。ガラガラと音を立てるコインランドリーの引き戸を横切ると、左側にさらに狭い通路がある。進むとアパートが見え、さらに左に折り返すと見たこともない建物がある(詳細失念)。地図が現れ、自分が今歩いた道が表示される。左へ2回曲がったので180度曲がったことになる。ところがコインランドリー横の細い通路は地図上には無い。中学時代の同級生の少年(夢の中では、ある人物がさもいままで一緒に居たかのようにして突然現れることがよくある)が「なるほど……」と独り言。

 家に戻ると、火は鎮まり、善良な火に戻っていた。鍋を作り、皆で食べた。

バスの運転手

 バスの運転台にいる。前方には3つの車線があり、1つは大きく右に曲がってより大きな車道に合流するもの、残り2つはそれぞれさらにきつく曲がってどこかへ行く細い車道。意気揚々にバスを発進させ、大きな車道に合流する。ウィンカーをつけ、左折する。指示によれば、左折した先でさらに左折とのこと。信号を待ち、コースを頭に描く。

 信号が変わり、バスを発進させる。そしてさらに左折する。と、目の前には商店街が見えている。「大丈夫なのだろうか」と思いながらも、バスは商店街につっこんでゆく。

乞食の老婆

 グリム童話に「乞食の老婆」と言うお話があります。ある若者が、外で寒そうにしている乞食の老婆を見て、「暖炉で暖まりなよ」と招き入れる。ところが老婆は暖炉に近づきすぎるあまり、その上着に火がついてしまう。老婆はそれに気がつかないまま暖まり続ける。そして若者はただその老婆を見ている……と言うお話です。

 この物語を見て、最初は「なんだこれは……」と思いました。強引に子ども向けのお話として読むならば、「この若者のようなことをしてはいけません。困っている人を見捨てるべきではありませんよ」というような訓話として読むことも出来なくはないのでしょう。それにしても随分ひどい話です。

 この物語について、グリム童話をはじめとするメルヘンを暴力から読み解く『首をはねろ!』という本では、老婆による精神的な暴力を逆手に取っている話なのだと説明されています。つまり、老婆は自分が弱者であることを装いつつ、その裏ではそれを強みに変え、救済をせよと若者に迫る。老婆に対する仕打ちは、このような精神暴力に対する憂さ晴らしのようにも思えます。

 そう考えると、この精神的な暴力というものは、今の時代にもあるのかなと。例えば、電車などで、目の前に老人が立っているとき。その老人から「譲ってもらって当然だ」といわんばかりのオーラを感じ取ることもあるかもしれません。そうすると、譲ろうと思っていたなけなしの善意もたちまち消え失せてしまう。いわば「乞食の老婆」ならぬ「電車の老婆」というわけです。こういう状況や心の動きがあってもなにもおかしくない。そうすると、まったく訳の分からなかった童話の世界にとっかかりができる。

 ずいぶんなこじつけのようにも思えますが、これはこれで面白いと思う次第です。

おでん

「おでんいかがでしょうか、おでんを300個売らないと帰れないんです!」

「ほ?」

 まぬけな声を挙げてしまった恥じらいのなかで、「ははぁん、そうきましたか」と得心していた。売らないと帰れない。つまり「あなたは買うと言う選択をすることでわたしを助けることができる。にもかかわらず買わないということは、わたしを意図的に見殺しにすることだと言ってよい。あなたはわたしを見殺しにするのか」と言っているのだ。

…………いや、そこまでは言っていないだろう。

「ああ、またにしますね、粒あんまんをください」

「はい、またおねがいします」

 この街にも寒気が流れ込み、あんまんの季節がやって来た。

首をはねろ!

 この本を図書館で見つけてピンときました。まず「首をはねろ!」という衝撃的なタイトルで驚き、メルヘンと暴力という意外な副題に興味をそそられました。そうして読んでみると、メルヘンの暴力からいつになっても変わることのない人間のさがを解き明かしてゆく筆者の話に思わず引き込まれてしまい、あっという間に読み終えてしまいました。(こんな長文を読むほど気長な人は少ないだろうと思い、言いたいことは最初の段落でざっくり表現するようにしています)

 メルヘンの残虐性については、ある程度は広く知られていると思います。そもそも「赤ずきん」からして、赤ずきんに助けてもらったおばあさんは狼への報復として腹を裂き石を詰めていますし、「白雪姫(雪白ちゃん)」にしても女王(継母とされることもありますが、初版のグリム童話では実母です)は灼けた靴を履かされ踊り狂って死ぬという壮絶な最期を遂げています。

 こうした有名な例は序の口でしかありません。兄弟、親子、祖母と孫、嫁姑、隣人といった身近な人間に嫉妬し、不幸を願い、殺害を企てる。それも、ただ殺すだけでは飽き足らず、じわじわ傷つけながらなぶり殺したり、目を抉ったり、焼いて生き地獄を味わわせたり、スープにしたりと、残虐な物語ばかりが取り上げられています。それを知るだけでも衝撃的で面白いところです。

 そしてさらに本書が面白いのは、その残虐性を面白おかしく取り上げるのではなく、「なぜ残虐なのか」というところに考えを進めているところにあります。それを要約するとこのようになります。

広範囲に及ぶ資料の中から、わたしは代表的な暴力シーンを選び出し、分析した。これらのシーンを見て分かるのは、いかに人間は暴力的になりやすいかということ、いかに人間が暴力をふるい、あるいはそれに耐えているかということ、あるいは、いかに人間が暴力から身を守っているかということである (p. 7)

 そこから見えてくるのは、人間が持つ”暴力に対する欲求”でした。ある場合には進んで暴力を行使し、それが叶わぬ場合は空想のなかの暴力で抹殺し、身を守るための暴力は正当化される。その暴力は、兄弟や姑といった家庭内(家族が憎み合うということです!)はもちろんのこと、隣人、教会、王国と、人間社会のありとあらゆるところに存在するものです。

 ここで筆者は重大な指摘をしています。それは、この”暴力に対する欲求”を誰もが持っているということです。メルヘンの読み手は、自分は善良な主人公であると信じたいでしょうし、残虐極まりない悪役(身内であることも多い)の死を願うでしょう。ところが筆者は、悪役が描く嫉妬や不信という感情はわたしたち自身が持つものでもあると言います。家族を八つ裂きにしたいと願うことはなくても、自分より出来の良い弟が居なくなれば……、などという他人を排除したがる感情があるというのです。

 そしてメルヘンは、そうした負の感情を抑制したいと思う人びとの気持ちに応えるものでもあります。悪役に自分のおぞましい感情を乗せ、悪役が処刑されることで自らのおぞましい感情も処刑される。そうして善良な自分を信じることができる。ところが、悪役を処刑するのもまた暴力なのです。”正当と認められた暴力”に人びとは快感を見出します。それを逆手にとって、正当であると主張するために、被害者を悪人に仕立て上げることさえあるのです。

 本書を読めば読むほど、メルヘンの残虐性は「ずっと昔の、しかも外国の話だから」「文化が違うから」などと言って済まされる話ではなく、むしろ人間の心や人間の営みにつきまとう普遍的な問題をそのまま描いた物語なのだということを感じずにはいられません。そこには当然負の部分も描かれています。しかし不思議なことに、本書を読んでそうした負の部分が描かれていると知ることで、いっそうメルヘンに対する共感や考えが深まってゆくのです。

 あらためて、グリム童話も読んでみたいものです。

首をはねろ!

首をはねろ!