もの知らず日記

積み重なる駄文、天にブーメラン

乞食の老婆

 グリム童話に「乞食の老婆」と言うお話があります。ある若者が、外で寒そうにしている乞食の老婆を見て、「暖炉で暖まりなよ」と招き入れる。ところが老婆は暖炉に近づきすぎるあまり、その上着に火がついてしまう。老婆はそれに気がつかないまま暖まり続ける。そして若者はただその老婆を見ている……と言うお話です。

 この物語を見て、最初は「なんだこれは……」と思いました。強引に子ども向けのお話として読むならば、「この若者のようなことをしてはいけません。困っている人を見捨てるべきではありませんよ」というような訓話として読むことも出来なくはないのでしょう。それにしても随分ひどい話です。

 この物語について、グリム童話をはじめとするメルヘンを暴力から読み解く『首をはねろ!』という本では、老婆による精神的な暴力を逆手に取っている話なのだと説明されています。つまり、老婆は自分が弱者であることを装いつつ、その裏ではそれを強みに変え、救済をせよと若者に迫る。老婆に対する仕打ちは、このような精神暴力に対する憂さ晴らしのようにも思えます。

 そう考えると、この精神的な暴力というものは、今の時代にもあるのかなと。例えば、電車などで、目の前に老人が立っているとき。その老人から「譲ってもらって当然だ」といわんばかりのオーラを感じ取ることもあるかもしれません。そうすると、譲ろうと思っていたなけなしの善意もたちまち消え失せてしまう。いわば「乞食の老婆」ならぬ「電車の老婆」というわけです。こういう状況や心の動きがあってもなにもおかしくない。そうすると、まったく訳の分からなかった童話の世界にとっかかりができる。

 ずいぶんなこじつけのようにも思えますが、これはこれで面白いと思う次第です。

おでん

「おでんいかがでしょうか、おでんを300個売らないと帰れないんです!」

「ほ?」

 まぬけな声を挙げてしまった恥じらいのなかで、「ははぁん、そうきましたか」と得心していた。売らないと帰れない。つまり「あなたは買うと言う選択をすることでわたしを助けることができる。にもかかわらず買わないということは、わたしを意図的に見殺しにすることだと言ってよい。あなたはわたしを見殺しにするのか」と言っているのだ。

…………いや、そこまでは言っていないだろう。

「ああ、またにしますね、粒あんまんをください」

「はい、またおねがいします」

 この街にも寒気が流れ込み、あんまんの季節がやって来た。

首をはねろ!

 この本を図書館で見つけてピンときました。まず「首をはねろ!」という衝撃的なタイトルで驚き、メルヘンと暴力という意外な副題に興味をそそられました。そうして読んでみると、メルヘンの暴力からいつになっても変わることのない人間のさがを解き明かしてゆく筆者の話に思わず引き込まれてしまい、あっという間に読み終えてしまいました。(こんな長文を読むほど気長な人は少ないだろうと思い、言いたいことは最初の段落でざっくり表現するようにしています)

 メルヘンの残虐性については、ある程度は広く知られていると思います。そもそも「赤ずきん」からして、赤ずきんに助けてもらったおばあさんは狼への報復として腹を裂き石を詰めていますし、「白雪姫(雪白ちゃん)」にしても女王(継母とされることもありますが、初版のグリム童話では実母です)は灼けた靴を履かされ踊り狂って死ぬという壮絶な最期を遂げています。

 こうした有名な例は序の口でしかありません。兄弟、親子、祖母と孫、嫁姑、隣人といった身近な人間に嫉妬し、不幸を願い、殺害を企てる。それも、ただ殺すだけでは飽き足らず、じわじわ傷つけながらなぶり殺したり、目を抉ったり、焼いて生き地獄を味わわせたり、スープにしたりと、残虐な物語ばかりが取り上げられています。それを知るだけでも衝撃的で面白いところです。

 そしてさらに本書が面白いのは、その残虐性を面白おかしく取り上げるのではなく、「なぜ残虐なのか」というところに考えを進めているところにあります。それを要約するとこのようになります。

広範囲に及ぶ資料の中から、わたしは代表的な暴力シーンを選び出し、分析した。これらのシーンを見て分かるのは、いかに人間は暴力的になりやすいかということ、いかに人間が暴力をふるい、あるいはそれに耐えているかということ、あるいは、いかに人間が暴力から身を守っているかということである (p. 7)

 そこから見えてくるのは、人間が持つ”暴力に対する欲求”でした。ある場合には進んで暴力を行使し、それが叶わぬ場合は空想のなかの暴力で抹殺し、身を守るための暴力は正当化される。その暴力は、兄弟や姑といった家庭内(家族が憎み合うということです!)はもちろんのこと、隣人、教会、王国と、人間社会のありとあらゆるところに存在するものです。

 ここで筆者は重大な指摘をしています。それは、この”暴力に対する欲求”を誰もが持っているということです。メルヘンの読み手は、自分は善良な主人公であると信じたいでしょうし、残虐極まりない悪役(身内であることも多い)の死を願うでしょう。ところが筆者は、悪役が描く嫉妬や不信という感情はわたしたち自身が持つものでもあると言います。家族を八つ裂きにしたいと願うことはなくても、自分より出来の良い弟が居なくなれば……、などという他人を排除したがる感情があるというのです。

 そしてメルヘンは、そうした負の感情を抑制したいと思う人びとの気持ちに応えるものでもあります。悪役に自分のおぞましい感情を乗せ、悪役が処刑されることで自らのおぞましい感情も処刑される。そうして善良な自分を信じることができる。ところが、悪役を処刑するのもまた暴力なのです。”正当と認められた暴力”に人びとは快感を見出します。それを逆手にとって、正当であると主張するために、被害者を悪人に仕立て上げることさえあるのです。

 本書を読めば読むほど、メルヘンの残虐性は「ずっと昔の、しかも外国の話だから」「文化が違うから」などと言って済まされる話ではなく、むしろ人間の心や人間の営みにつきまとう普遍的な問題をそのまま描いた物語なのだということを感じずにはいられません。そこには当然負の部分も描かれています。しかし不思議なことに、本書を読んでそうした負の部分が描かれていると知ることで、いっそうメルヘンに対する共感や考えが深まってゆくのです。

 あらためて、グリム童話も読んでみたいものです。

首をはねろ!

首をはねろ!

オンラインゲームで知らない人と協力する難しさ

 最近、ゲームで他人との協力関係を築く楽しさや難しさを感じています。言葉を介さないプレイのみによる信頼関係が成り立ったときの楽しさは大きいし、それが成り立たないとガッカリもします。そもそもあんたは弱小プレイヤー、そんなにマジメ腐って考えても意味ないよ……と思うのですが、一人でやるわけではない以上、協力関係というのは立ちふさがっている壁だとも思うのです。

 またゲームというと、「子どもにとって(テレビやコンピュータの)ゲームはよろしくない」という話をよく聞きます。短絡的なものでは「暴力的なゲームをやると暴力的になる」と断言していたり、そうでなくても「暴力的なゲームをやると子どもの攻撃性が増す」とか、「社会生活を営む上で大切な共感能力が育たない」などという話を聞くこともあります。こうした理由から、ゲームにおける他人との協力関係について思うところがあったので、ここで少し記録しておきます。

ゲームでも学んだ

 それについてどうこうと言うわけではありませんが、わたし自身はゲームから社会性を学んだところもあるなあと思っています(社会性と言っても厳密な意味ではなく、ここでは集団作業をする、という程度の意味でしかありませんが)。さらに言うと、ゲームの場合、オンライン上の見知らぬ人びとと協力することがほとんどなので、これは現実ではなかなか得られない体験ではないかと思うのです。

 例えば、敵を倒すゲームを想像してみます。そこには一人では倒しきれない量の敵が居ます。より良い成果を出そうとするなら、味方と協力するしかありません。さらに敵をより多く倒そうと思うなら、集団で効率的に動く必要があります。各自が自分勝手に動くと、敵を奪い合って共倒れ、どちらも本来出せたであろう力を出せずに終わることもあります。

問題1:集団のために自分がどう行動すべきか

 見知らぬ他人と協力するだけでも難しいのですが、さらに難しいことに、プレイヤー同士の作戦会議が行なわれることはほぼありません。現実であれば言葉を交わすこともできますが、ゲームではほぼ完全にプレイヤーの裁量にゆだねられます。集団のために自分がどう行動すべきかを、自分で考えないといけないのです。ですから、個としての戦力と同時に、集団としての連携も大きく勝敗に関わってきます。

 極端に言えば、たとえ強力なプレイヤーが居ても、その人が故意でないにしても他の仲間が狙っている標的を奪うような動きをしてしまうということは、突き詰めれば敵チームを一人で相手をしているような状況になってしまいます。たとえ自分より戦力として劣るとしても、”任せられる部分は”任せていったほうが全体としてより高い結果を出すことができる、というのは、ゲームだけでの話ではないと思います。

問題2:協力を阻害する要素。私怨など

 さらにもう一つ難しい問題があります。そういう目的意識を共有しないプレイヤーも居るということです。そもそも「自分のやりたいようにやる、他人など知らない」という楽しみ方を禁止するルールはありませんし、そうでない、普段は協力的なプレイをしている人でも「私怨」という問題があります。例えば、チームに分かれた対戦プレイの場合に明らかです。協力プレイの場合には倒す敵は共通の敵ですが、対戦プレイでは直接に互いを倒し合うので私怨が生じやすいのです。具体的に言えば、同じプレイヤーから2度3度と狙われて腹が立つ、そこでそのプレイヤーに報復に出ようと狙い続けた結果、まったく戦果を出せずチームは敗北した、というようなケースがあります。全体として達成すべき目標よりも自分の感情を優先してしまう人がいるというのは、いつになっても消えない慣習のようにも思えます。

ゲームはけっこう難しいのではないかと

 要するに、協力的な関係を築くことが求められるゲームで、より目標の達成度を高めたいと思うならば、集団のなかでの自分というものを考えざるを得ないと思うのです。そしてそれを考えてみると、じつはゲームに求められる社会性はなかなか複雑なものなのではないかと思います。そう考えると、協力関係を築く難しさというのも当然のことだと思えてくるのです。協力プレイとは言いますが、そもそも「協力しよう」という前提を他人に強いることはできませんし、共有できたとしても、それは腕前の上手下手や武器などの性能と同じように、ゲームの戦果に関わる一因でしかありません。ただし、腕前や武器の性能に比べると、プレイヤーの社会性はより直接的なかたちでチーム全体の勝敗に関わってきます。個としての能力が高くても、社会性が無ければ味方の役割を奪ってしまう。この点が大きな違いだと思うのです。

 何が言いたいかといえば、ゲームも現実も、他の人と協力するのはけっこう難しいなと、こんなことを感じています。

本が好き

 「本が好き」という書評コミュニティに登録してみました。読書関係のこういったサービスでは「ブクログ」にも登録していましたが、ブクログはどちらかというと短く分かりやすい感想が多く、読んだ感想をしっかり書いておきたかった自分にはちょっと場違いな感じもありました。そこで、そういう文章を書くのに適したサービスはないかと探して見つけたのが「本が好き」というコミュニティでした。

 それで早速書評ともいえない感想文を書いてみたのですが、わたしがはてなブログに移転したときと同じような驚きがありました。それはなんといっても、反応があるということです。書評を書くと、それを読んだ人が投票機能を使って「読んで楽しい」「素晴らしい洞察」などの感想を送ってくださることが珍しくありません。ブクログにも「いいね」という機能がありますが、「いいね」がついている書評や感想はかなり少ない印象を受けます。談話室(掲示板、フォーラムのようなもの)のほうの盛り上がりに比べると、少し不思議です。「本が好き」では、投票することでポイントが入る(たぶん)ので、動機付けの違いかなとも思うのですが。

 もっとも、だからといってブクログが悪いと言いたいわけではありません。むしろブクログは、自分の読んだ本や読みたい本を記録するのに重宝しています。記録という作業がとてもしやすいという点は、ブクログの利点だと思います。例えば、他人の感想を見て「この本を読みたい」と思えば、ワンクリックで「読みたい本」として登録しておくことができます。

 どちらにもそれぞれの長所短所があって上手く補完し合っているので、自分にとってはとても良い環境のように思えます。ただ、自分が「本が好き!」と名乗るのは、なんだか後ろめたい気もしますけどね。

www.honzuki.jp