もの知らず日記

積み重なる駄文、天にブーメラン

懸垂

 腕立て伏せはつまらないが、懸垂は楽しい、というのが、痩せ男の戯言である。

 理由は明白で、腕立て伏せは怠けるのが簡単だからである。わたしが腕立て伏せをすると、怠惰がすぐそばで待っている。そして、腕が悲鳴を上げれば、すぐにひざをつけばよいではないかと言う。30回もやったのだ、地面に伏せばよいではないかと言う。そんなことを繰り返しているうちに、やめてしまえばよいではないかとなる。

 ところが懸垂はそうではない。怠ければ体が上がらない。上がらないから意気込んでやる。たった一度でも上がると、僕のか細い腕も捨てたものではないなという気になる。それで調子に乗って二度三度とやる。そうするとけっこう腕に負担が来る。それがまた、自分がやったという気がして良い。腕立て伏せでは、その負担に至ることすらなく、登り始めた途端に怠惰の道へ転がり落ちてしまうのだ。

 なにをバカなことを言うかと思われるかもしれないが、たしかにバカに違いない。こんな屁理屈ばかりこねまわしているから、いつまで経っても痩せ男なのだ。

睨まれた

 電車で狐のような目をした女に睨まれ、おぞ気がした。

 女性のそばに居たくない。男性のそばにも居たくない。面倒に巻き込まれたくない。へんてこな騒音を聞かされたくない。でも他人が読んでいる新聞や本にはちょっと興味がある。それがわたしの本音である。

 棺桶のような電車があったらどんなに良いだろうかと思う。他人の新聞や本は分からなくなってしまうが、いまや大半の人はスマホをいじくっていて何をしているか分かったものではない。音楽を聴いているのか、語学のリスニングをしているのか、友人とチャットをしているのか、目の前にいる人間をネット上で誹謗しているのか、どれも外からみれば見分けがつかない(とは言いすぎではあるが、実際よく分からない)。

 そんなことを思いながら席に座り、本を開いた。さいわい、森鴎外の『興津弥五右衛門の遺書(新潮文庫)』を読んでいた。遺書の部分はもの知らずには難解な候文(?)で書かれていて、読み進まないくせに開いただけで気だけは引き締められる。べっとりまとわりついたものを振り払うように読んだ。

山椒大夫・高瀬舟 (新潮文庫)

山椒大夫・高瀬舟 (新潮文庫)

時間が無い

時間が無い

ゲームをする時間が無い

本を読む時間が無い

買い物に行く時間が無い

眠る時間が無い

家に帰る時間が無い

年賀状を書く時間が無い

雪かきをする時間が無い

お昼を食べる時間が無い

コーヒーを入れる時間が無い

カップ麺をつくる時間が無い

ダイエットをする時間が無い

宿題をする時間が無い

資格をとる時間が無い

メモを取る時間が無い

病院に行く時間が無い

子育てをする時間が無い

 

「暇だ」

それが彼らの口ぐせである

電車の色

 電車の色が違う、と泣きわめいている子どもがいた。その子は有楽町線副都心線の電車が好きらしく、西武の、青色のラインが入った電車はお気に召さなかったらしい。ああ、自分もそうだったなあ、と思った。

 小さいころ、「黄緑(山手線)がいい、緑はやだ」と大宮駅で叫んだ記憶がある。もっとも、大宮駅で山手線に乗れるはずもないのだけど。色の好みとしては、強い色、暗い色が嫌いで、黄緑やオレンジが好きだった気がする。金運が良くなるとテレビで見て黄色が好きになった時期が一週間くらいあったけど、目が痛くなってブームは過ぎ去った。

 電車で言えば、音にも好き嫌いがあって、西武の青色の電車の音は好きだった。反対に、色も音も嫌いな電車と言うのもあって、それは白地に赤と黒のラインがはしっている電車だった。それは自分が墓参りに行くたびに使う路線の電車で、運悪くその電車にあたると心底落胆していたのを思い出す。今では昔ほど嫌いと言う訳ではないけど、乗りたくないという思いが結構あるから、子ども時代の好き嫌いというのは結構影響するんだな、と思ったりもする。

打ち込み日記 - ショパン 「アンダンテ・スピアナート」

 ショパンのアンダンテ・スピアナートを打ち込みました。この後に続く華やかなグランド・ポロネーズに対して、こちらはとても穏やかな作品だと思います。ロベルト・シューマンによれば、メンデルスゾーンはこの曲を聴いて「目の前に庭が現れ、人々が噴水や珍しい小鳥たちの間を心静かに散歩しているようだ」と言ったとか、言わなかったとか……(『弟子から見たショパン』)。

 Pianoteqではプレイエルを始め、実際には入手困難なピアノの音色を楽しむことができます。とくにこのプレイエルには、こうした穏やかな作品が良く似合うと思います。ベロシティを上げるとすぐに嫌な音が出てしまうので、フォルテが多い作品の打ち込み(軍隊ポロネーズ英雄ポロネーズなど)は結構苦労しています。

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 とにかく大きなもの、立派なものに憧れている子どもだった。男の子にはそういう時期が訪れるものなのかもしれない。子ども用の小さな傘が嫌で、60cmだの70㎝だの、とにかく大きな傘を買ってもらって喜ぶような子どもだった。なんとくだらない背伸び。小さな体に大きな傘を背負い、幼稚園に通っていた――というわけもなく、あまりに使いづらいので1回か2回使っただけで子ども用の傘に戻してしまった気がする。実際には「僕に買ってもらった」と自分が思っていただけで、はなから父用の傘だったのだろう、と、ここ最近になって考えるようになった。

 はじめて自分で傘を買ったのは高校生のころだった。8000円くらいのMoMAの傘で、内側に青空が描かれているところに惹かれて買った。それから5年以上は使い続けたけれど、これまた最近になって電車のなかに置き去りにしてしまった。目の前の扉が閉まり、反対側のホームから折り返し運転の乗客が乗り込んでくる。車両番号と座席の位置を覚えていたので、すぐに駅員に言おうかとも思ったが、寸秒思いを巡らせて、傘を見捨てることにした。自分の気のゆるみが招いた結果だ。この傘のことを教訓にして、しっかりせねば、と思ったからである。そう考えると、「たかが傘、取り戻せるなら取り戻せばいいじゃないか」という気も無くなって、むしろ「たかが傘」で済んでよかったとも思った。自己満足の不法投棄かもしれない。だがわたしが失った傘はわたしにとってそれ以上の意味があった。いつか、自分が一人前になったと思えるようになったら、また同じ傘を買いたいと思っている。

トイレノック

 外出先でトイレに入ると、いきなりガチャガチャとやってくる人が結構いる。ノックをするという手段を知らないのか、はたまたよほど腸内の状況が切迫しているのか。

 そもそも、いきなりガチャガチャっとやるのは、ホラー番組の再現VTRに出てくるオバケくらいだと思っていた。極めて心臓に悪い、失礼な行為だとわたしは思っている。「欧米ではガチャガチャやるんだ」と思っているのかも分からないけど、ガチャガチャなんてやらないで静かに回すだろうし、そもそも今のトイレはたいてい外から使用中かどうかを確認できるのだからドアノブを回す必要自体がないんじゃないかと思う。それで、どうしても入りたい、もう今にも事故につながりかねないという場合には、ノックをするとか、ほかの手段があると思う。

 たった一か所しかないトイレがなかなか開かないのでやむなくノックをしたら、すぐに出てきた、絶対ケータイいじってたろ……なんていうこともある。けど、そういう場合でもいきなりガチャガチャやったらトラブルになりかねない。そう考えないのだろうか。ノックをした方がトラブルにつながると思っているのだろうか。